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風邪によく似た諸症状
わたしは科学が嫌いである。 大嫌いである。どわい嫌いである。具体的なレベルを定めるならば、穴の空いた靴下と黒板を擦る音の間にランクインするくらい嫌いである――黒板の音が最下位だ。穴あき靴下も使い勝手が悪いし、大抵クサいので低ランクだけれど、頭がとびでた指をぴこぴこさせると実はなかなかかわいいの。 ともかく。 なぜそんなピンポイントな二者の間に、科学などという大きな定義が入りこんでいるのかといえば。とても一言では語り尽くせぬほどの紆余曲折、千夜一夜物語的な意味合いでの辛さがあるので今は省くとするけれど。 大切なことはただひとつ。 わたしは科学が大ッ嫌いなのである! 「つまりね……げほっ。はな、げほげほっ、う〜……鼻がイタいよぉ」 閉め切った部屋のまんなかに立ち、ビリー隊長の圧倒的な動きを中途半端にトレースしつつ、わたしは携帯電話に呻いた。 目がとろんとして、テレビがよく見えない。普段からついていけてないブートキャンプだけど、今日はもうメニューひとつふたつ遅れている。次はなんだっけ。腕立て? 無理じゃん電話してるし。 「わたしは、科学なんて、信じないからっ……だから、これは風邪じゃないんだよ」 『いや風邪だろ。まぎれもなく』 携帯からの声はずいぶん素っ気ない。 ちょっと呆れてる口調だし、バカにしたような響きもある。ひどいなぁ。それでカレシのつもりなんだろか? カノジョがこんなに苦しんでるってのに。 「風邪じゃないってば。科学的には感冒症候群と定義されている症状に酷似した、ひどい鼻水にひどいセキ、なんだよ」 『つまりは風邪だろ。てかなんだよ急に、つらいの? 俺そっち行こうか?』 「うっさいくんな。絶対アレでしょ、カゼ薬飲めーとか、あったかくして寝ろーとか、そういうこと言うんでしょ? 嫌がるわたしをムリヤリ押さえつけて」 『なんだその言い方……別にムリヤリはしないけど、治らないだろそうしないと』 「治るもん。というより治すもん」 ピッ、と画面のビリー隊長を愉快なポーズでポーズさせ、わたしは胸を張った。ノドが圧迫され、二、三回セキが出てしまう――あ、だめ、止まらない。五回六回七回。いやんいやん。 携帯の声が、少しだけ不安げに曇った。 『おいおい……本格的か? まぁもう朝とか寒いしな。行くぞ、そっち?』 「くんなってば! ボケ! 死ね! わたしは科学に頼らないで、独自の方法で治してみせるんだから」 『独自って……なんかさっきまで、ビリーっぽいのが聞こえてたけど?』 「うん。なんてーの、科学ヲタどものウソくさい見解によれば、風邪を引いたときには部屋をあったかくして、湿度を保ちつつ安静にしとくってんでしょ?」 『見解っつーか常識だな。つかさすがにビリーはやめろ――』 「だから」 彼氏の言葉を遮って、わたしはひとつ身震いした。 日中とはいえさすが十一月、冷え方が色々とハンパない。剥き出しの乳房が、悪寒も手伝ってふるふると揺れた。 「とりあえず全裸で、除湿器かけながらめっちゃ運動してみてるんだけど」 『……は?』 「来ちゃダメだよ? これが風邪によく似た鼻水にセキだとすると、今えっちぃことしたら感染っちゃうかもしれないから。うふうふ。げほっ」 携帯はしばらく沈黙した。おおかた、わたしの言った意味がわからなくって、辞書でも引いてるんだろう。文系の彼ってこういうトコ面倒。 わたしはそのままキッチンに向かい、冷蔵庫を開けた。 さすがにクーラーはつけてなかったけど、なんかもう、うん、わたしバカじゃない? 全裸はちょっと失敗だわ。いくら科学の逆をいこうったって、普通考えないわよね。 野菜室から大根を取り出したところで、携帯が震えた。ように思えた。 『バッカかお前ぇっ!?』 「はわうっ。……ちょっとぉ、いきなり大声出さないでよ。おっぱい凍るかと思ったじゃない」 『それを言うなら心臓だろが!? お前、なに、な、え!? 何考えてんだ!? 全裸って、し、正気か!?』 「いやうろたえすぎでしょ。わたしもさすがに、ちょっぴりバカだったかなーなんて今思ってたのよね、うん」 『今だと!?』 携帯を肩とほっぺで挟み、包丁で大根を捌いていく。ふふ、見なさいこの華麗なる手捌き。和食屋で板前に志願したのに、ホールと勘違いされた美貌も自慢だけど。やっぱり女は料理よね、料理。 あ、くしゃみ。大根ウィズ鼻水。……塩はいい相性よね。 ところで彼氏くん。 「ねー、なんで黙るの? しゃべってよ。かまってよ」 『いや……さっきからトントン聞こえるんだけど、料理してんの?』 「してるよ」 『服着た?』 「まだ」 『お前――』 「できたっ」 彼女のわたしが言うのもナンだけど、うちの彼氏は隙が多い。ちょびっとアクションが入るだけで、目先が転がってしまうのだ。今もこうして沈黙して、わたしの真意を探ってくれている。 ま、一人のオンナとしては、多少の不安を感じないでもないオトコなんだけど。 でもわかってるよ。心の底では、いつもわたしだけを見てくれているって! たぶん。 『何ができたんだ……? おかゆとかじゃないんだろ、どうせ?』 「おっ、やるね。当たってるけど、なんでそう思うの?」 『お前だから』 「あぁ……ムカつくのに言い返せないからムカつき二重奏。いやね、アレなのよ。民間療法に頼ってみようかと思って」 『へえ?』 科学を信じることはできない。なぜならわたしは科学が嫌いだから。 つまり科学が発達してない時代に流行った民間療法なら、この風邪によく似た諸症状を首尾良く退けてくれるんじゃないかな、と。そう思ったわけなのである。 意外にも、彼氏も同意してくれた。 『まぁ、アリかもな。けっこう科学的に効果立証されてたりするし』 「え、そうなの? じゃやめた。科学ペッ」 『……お前なぁ。てか、なにやってたの?』 「ネギ焼いて巻こうと思ったんだけど、ネギなくて。大根切ってみた」 『バカまっしぐらだなもう』 「なんてこと言うのよ――げほっ!? げふ、ぐふげふがふごふっ」 意味もなく大袈裟なセキをしてみる。 ノドはそんなに痛くないのである。真水のようにさらっとした鼻水と、やたら溢れてくる涙が問題だ。う〜む、鼻水と涙。こいつらをどうにかしないと。できれば同時になんとかしないと。 よし。 「タオルだな」 『……は? あ、身体拭くの?』 「このどスケベが! あっという間に死ね!」 『いやなんでだよ!? んなこと言うならハダカになんなバカ! つかそうだよ、まず服着ろ服!』 「はいはい。着ますよ〜、っと……んぐ」 タオルを広げて顔に巻きつけ、うなじの上でキュッと縛る。 よし、完璧。これはいいアイデアだわ。鼻水は漏れないし、涙も止まる。吸水性だってバツグンよ――だ、だめだめ! 吸水性って言葉はすごく科学っぽいわ! えーと、なんて言おう。 染む率。 そう染む率。タオルの染む率ちょーすごーい。けどこれなにげに前見えないよね。 「パジャマ……パジャマどこ、どこ……」 『どした? 服見つからないのか?』 「というか見えない」 『おい今度は何やってんだ……てゆーかさ、ひとつ言っていい?』 「なによ」 『携帯電話とか科学の骨頂じゃね?』 プツッ ……なんたる盲点。見逃してたわ、そうよねこんな電子機器。あぁっなんてこと、電子機器だなんて! めちゃくちゃ科学っぽい名前じゃない! 今までわたしをダマしてたのね!? この裏切り者、踏んでやる! 踏んで……踏ん、踏んで、あれ携帯どこ? 電源切って、あれ〜こっちに投げたわよね? ベッドがあるはずの向きだから、合って―― 「……いっ――」 うん、ベッド。知ってたわよ、こっちにあることくらい。 スネぶつけるまでわからなかったけど。 「――たぁぁ〜〜〜〜〜いッ……!」 「祥子!」 ベッドに向かって倒れ込んだはずが、違う何かに抱き留められる。 あやや? おかしいです。いやおかしいのはだいぶ前からだけど。ちょこっと聞こえた男の声と、このひどく覚えのある腕の感触は――ひょっとして。 「死んだおじいちゃん……?」 「なにがだよ。ああもうタオル取れ、なんだこれほんと……!」 「いた、いたい〜。髪が、あう、あぁ〜〜〜」 ムリヤリ目隠し兼鼻隠しを剥ぎ取られる。なんて乱暴な手つき。 もう間違いないわ、これは、この人は。 「あっくん……来て、くれたの、ね……」 「いやなんでいきなり死にかけモードなんだ!? つーか俺が死にたいわッ! なんでこの冬場に、素っ裸で顔面にタオル巻いて肩にサロンパスのごとく大根貼っつけた彼女を抱きしめにゃならねんだよ!?」 「もったいなかったんだもん……」 引き続き乱暴に――なんて予想してたら、彼はずいぶん優しい手つきで、わたしをベッドに寝かせてくれた。顔は相変わらず怒ってるけど。んも〜、もともとあんまりハンサムじゃないんだから、鼻にシワ寄せないでよね。怖いわ。 でもなんだろ。急に身体が重くなったような。ビリーやっても大丈夫だったのに…… あ、大根剥がされた。 「まさか本気で服着てないなんて……もうお前の面倒見きれねーよ、マジで」 「そんなこと言って。なんでこんなに来るの早いの?」 「科学どうこうぬかしてた時点で、家は出てたよ。どうせ来ることになるのはわかってたからな」 「……ナマイキ」 「お前がだ、バカ。メシは?」 食べてない、と答えると、彼はため息をついて立ち上がった。キッチンに向かっていく……大根持ったままで。ちょ、それ料理に使うの? なんだかやめて? 急激に痛くなってきた関節を動かして、ベッドを抜け出る。鍋を物色している彼に近づいて、後ろからぎゅーっと抱きついてやった。 「寒かったよぉ」 「ってだから服着ろっての!? そんなカッコしてたらいつまでも治らねーだろ!」 「あっくんにあっためられたい……」 「うつるから嫌だ」 なんて言いながらも、こっちを向いて抱っこしてくれる。あぁ、あったかい――というより、本格的に身体が冷えてたのねこれは。う〜ん、わたしとしたことが。何やってたんだろ。 でもま、結果がいいから、いっか。 「やっぱり、科学はいらないよ〜……あっくんがいればいいや」 「俺はきっぱり科学に頼って治すぞ。てか、なんでいきなり科学嫌いになったの? あんた理系でしょうに」 「森宮にセクハラされたー」 「……誰?」 「科学の教授」 そんなことでかよ、って表情が一瞬だけ浮かんでたけど。やっぱりわたしの彼氏には隙が多い。 ちょっと背伸びしてキスしてあげると、すぐににやけてしまうのだ。 「……うつるだろ」 「あっくんが風邪引いたら、あたしが治してあげるよ」 「大根切ってか?」 「うん!」 その前に全裸になってもらうけど、と言うと思いきり抱きしめられた。彼はおそらくベアーハッグのつもりで、確かに死ぬほど息苦しかったけど。 そのまま溶けてしまいたいほど、それは科学的でない暖かさなのだった。 |