縁の下にいる妖怪 1


「……。ふん」
 僅かに口元に笑みを含む。その時、縁側の端っこについたドア――書斎に続いている――が開き、正弘が姿を現した。タオルで汗を拭きながら、どすどすと足音を響かせてやってくる。
「おう、ユウ。がんばっとるな!」
「……まぁね」
「父さんのほう、スゴかったぞ〜。いきなり何の前触れもなく本棚が雪崩を起こしてな。危うく生き埋めになるところだった。悲鳴とか聞こえなかったか?」
「ああ、うん」
 聞こえたけど無視したよ、とはさすがに言わない勇弘であるが。
 それから、蜘蛛の巣との格闘だの、七センチくらいあるゴキブリが干涸らびてただの、ひとしきり語ってから正弘は去っていった。掃除されたばかりの風呂に入ってみるらしい。
 のしのしと座敷を横切って消える、大きな背中を見送って、勇弘は再び草むしりに戻ろうと向きを変えた――が、すぐに再び振り向いた。視界の隅に、妙なものが引っ掛かった気がしたのだ。
(ピンク……なんて、見えるわきゃねーよな、今……?)
 ピンク色の何かが、目の端に映ったと思ったのである。この季節の縁側には、あまり似つかわしくない色だ。こんな家なら、なおさらのこと。
「……な」
 勇弘は、ギョッとした。
 縁の下に女の子がいる。
 女の子が寝転んでいる。縁側の板張りの下、太い支柱の間の地面に直接、問答無用で寝そべっているのだ。まるで床に置いた絵本を寝転びながら読むように、両肘をつき、両掌で顎を支えて、眠たげな半眼をぼんやりと空に向けている。視界の隅に引っ掛かったのは、彼女の着ているピンク色の洋服だった。
(何だ……こいつ?)
 そういえば、美織が昨夜言ってたっけ、と思い出す。くるくる茶髪でピンク色の服を着た、自分たちより前からこの屋敷に住んでいる女の子が縁の下にいる、と。今勇弘が見ている少女の髪も、確かに茶色い巻き髪だ。何か言われたとも、言っていたような気がするが……?
 数秒、そのまま沈黙が流れる。微妙に緊張を感じて、勇弘は唾を飲み込んだ。
(さっき、俺の肩を叩いてたのは……こいつか?)
 いや違う、とすぐに自ら否定する。こいつじゃない。さっきとは、流れる空気が全然違う。ハッと、父が最初に言っていたことを思いだした。
『あの縁側には……どうしても近づけなかった。近づいて、雨戸を開けることができなかったんだ』
 父が近づけなかった縁側。
 縁の下の不可解な少女。
 それらから連想できることは、つまり、この少女が――
「……なに?」
 いきなり、漠然と空に向けていた視線をするりと勇弘に移し、少女は呟いた。まったく唐突な呼びかけに、ギクリと背筋を強ばらせる。反射的に応えようとしたが、一瞬喉が詰まって声が出せなかった。
「っ……あ、えっ……と」
 声が出てからも言葉にできず、ただ睨むようにその少女を見返す。真っ直ぐ自分に向けられている視線と表情は、それまでとまったく変わらない、無表情、無感情、無感動。とにもかくも気力のない、眠たそうな視線を向けてきている。
 もう一度唾を飲み込んで、勇弘はなんとか口を開いた。いつの間にか、信じられないほど緊張していた。
「お、お前……誰だ……?」
「どうして」
 返ってきたのは、やはり表情も抑揚もない、問い返しの言葉だった。反応に困って、またしばらく黙る。どうして、とはどういう意味だろう?
(どうしてそんなことを訊くの……か? つまり、こいつは――)
 そんなことを訊かれる筋合いはない、と言いたいのか。それはもしかして、昨日美織が言っていた、自分たちより前に住んでいたモノ、ということを意味しているのだろうか。
(なんにしろ、明らかに普通のヤツじゃない……というか、見た目以外に普通の部分を見つけられないな。どうするべきか)
 正弘が感じたプレッシャーの原因は、この少女なのだろうか。だとすれば彼女は、普通か普通じゃないかどころの話ではなく、人間ではないということになる。
 勇弘は、喉に渇きを感じたが、唾は飲み込まずに意を決して言った。
「お前は……幽霊、なのか?」
「違うわよ」
 至極あっさり返ってきた答えに、勇弘はその場にコケそうになった。
 それなりに心した問いだったというのに、まさか「違う」と返ってくるとは思ってもいなかった。それまで感じていた緊張の糸が、ぷっつんと切れる。完全に拍子抜けだった。
「え……ち、違うのか? 幽霊じゃねーの? そ、そうか、それは――」
「幽霊じゃなくて」
 静かに遮られ、言葉を切る。少女は、頬から左手だけ外して地面にぺたりとつけ、顎を右手だけで支えた。だらけたような、気の抜けたような、やる気ない感がより強くなる。
 幽霊じゃなくて何なんだろう、と勇弘が思うと同時、彼女は続けた。
「妖怪っていうのよ。あたしたちはね」
「…………え」
 勇弘はとりあえず、その発言を反芻した。
 妖怪。
 幽霊ではなく、妖怪。あたしたち、は。
 妖怪?
(同じじゃねーかっ……!)
 ようやく、妹の言葉を思い出す。ここはよーかいヤシキなんだよ。つまり美織も、この少女にここで出会って、今自分が聞いたのと同じようなことを言われたということか。なんてことだ、見事に話が繋がってしまった。
「同じじゃないわよ」
 わずかに、少女の声に抑揚が生まれる。心を読んだかのような発言に再び緊張するが、彼女はこれといって変わることのない、素っ気ない口調で短く続けた。
「妖怪と幽霊は別もの。混同されるとあんまりいい気しないの。だから間違えないでね」
「あ、ああ……って、い、いやまて。ちょっとまて」
 自分に言い聞かせるように言って、勇弘は眉根を寄せた。
 自分で自分を――複数形ではあったが――人間ではないと言い切った、というかそれが当然であるような口振りの彼女に、正直戸惑うし混乱している。もはや疑うべくもないことだが、彼女が本当に人間ではなく妖怪だったとして、それはこんなに淡々と話せるようなことなのか? 人間から見れば大変な異常事態であるのに、妖怪からすればさほどでもないのだろうか。まぁ、妖怪が妖怪と名乗って何が悪い、と言われればそれまでなのかもしれないが。
 なんにしろ、自分はこの唐突な状況で、するべきことを間違えてはならない。
「お前……いや、ええと。妖怪は、この家にたくさん……いるのか? いるんだよな?」
「そうよ」
 またもあっさりした返答に、体内で何かのボルテージが上がる。ん、と一度喉の奥で気合いを入れて、勇弘は言った。
「……じゃあ、お前も昨夜の連中の仲間なんだな。どうして俺たちを襲った? いや、襲ったっていうか、まぁ……なんで怖がらせようとするんだ?」
「さぁね。どうでもいいわよ」
 答えて、彼女はまた両手で頬杖をついた。本当にどうでもよさそうな仕草だったので、思わずムッとする。
「ど……どうでもいい、って」
「あたしは襲ってないもの。興味ないわ」
 彼女は面倒くさそうに、視線を勇弘から空に戻した。近くで鳴く蝉の声が、どうしてか妙に遠く感じられる。それはまったくの気の所為なのだろうが――話を切られたのかと思いきや、少女は空を眺めたまま続けた。
「あいつらは、あんたたちを追い出そうと頑張ってるみたいだけど。あたしには基本的にあんまり関係ないし」
「……。あいつら、って、他の妖怪たちのことか? 昨夜襲ってきた?」
「そうよ」
「なんでだよ。どうしてそいつら、俺たちを追い出そうとするんだ?」
「そりゃ、気に食わないからなんじゃない」
 いくら妖怪とはいえ、なんか妙だな――という目で、勇弘はその少女を見る。しかし同時に、さっきから何なんだこの人間は、とでも言いたげな視線を、少女も勇弘に向けていた。