山神家の妖怪たち 1


「不審に思って、ふと振り向くとだ……そこにはなぜか、大きな真っ黒いもじゃもじゃした物体が浮かんでいてな。一瞬きょとんとした男に、その塊はゆっくりと回転して――」
「も〜っ! もーもー、やめてーっ!」
「きゃ〜〜〜きゃ〜〜〜っ♪」
 近くに銭湯があるとのことだったが、非常にシビアな理由から今日はお風呂を断念した山神一家である。早々と布団を敷き、顔と手を洗ってパジャマに着替える。広い座敷によっつ並べられた布団がどうにも嬉しいらしく、美織ははしゃいでごろごろと転がり回った。
 大家さんは、山神家の現状を鑑みて、水道代と電気代を一ヶ月サービスしてくれた。しかし、「テレビとかないし、どうも娯楽が足りん」と呟いた正弘の独断により、蚊取り線香が似合う夏の夜の、プチ百物語大会が敢行されているのである。
 もっとも、喋っているのは彼一人だけだが。
「そこで男は気づいたんだ。その浮かんでるもじゃもじゃな塊は、実は髪の毛でできてるってことにな。それが回転するということは、つまり――」
「やめてって言ってるでしょー!? どぉしてそういう嫌な話ばっかりするのよ!?」
「きゃははははははっ。ねーパパ、それでそれで?」
 毎度、彼がそっち系の話をする度、美希は嫌がって叫びまわり、美織は喜んで叫びまわる。正弘は、一人淡々と寝転がっている勇弘に、期待を込めた眼差しを向けた。
「この話はどうだっ、ユウ? 少しは怖かったか?」
「いや。別に」
「……むぅ。またダメか」
 彼は残念そうに呟いて、枕元の自分の鞄をごそごそと探った。
「なんとかしてお前を怖がらせてやらにゃならん、と常々思っとるんだがなァ。なかなかうまくいかんもんだ。お前感受性とかないのか?」
「いや、だから、そんなくだらないことにムキにならなくていいってば……」
「なにをぅ。父さんにとっちゃ重要課題なんだぞ……お、あったあった」
 大きな鞄の底から、正弘は一冊のぼろぼろの本を取りだした。表紙をこちらに向けて、にこにこと本当に嬉しそうに言う。
「鳥山石燕大先生の、画図百鬼夜行! 父さん青春のバイブルだ」
「どんな後ろ暗い青春だよ」
「全然後ろ暗くなんかないぞ。ええとだな……」
「ちょっとあなた、もうやめてってば!」
 妻の制止を聞きもせず、正弘はぱらぱらとページをめくった。本当に何度も何度も読んだのだろう、くせのついたページの端は、手垢で茶色く汚れている。
 さほど時間も掛けずに目当てのページを見つけ出し、彼は息子にその怪しげな絵が描かれたページを見せた。この家のそれよりボロボロな障子に、いくつもの目が連なって張り付いている構図である。
「これなんてどうだ? 目目連! この妖怪はな、成り立ちには様々な説があるが、障子や壁などに現れる妖怪だ。百鬼夜行によると、目がこうぶわぁーっと連なるようで、それは碁打ちの――」
「やめてってば! もう寝るわよっ、はい電気消す!」
 耐えられなくなったのか、美希が立ち上がって蛍光灯の紐を引っ張る。かちかちッ、と手元が狂って引きすぎてしまったのか、豆電球も通り越して辺りは闇に包まれた。
「おいおい、何するんだ? 本が読めないじゃないか」
「読めないように暗くしたのよ! ほんとにもう、気味の悪い話ばっかりして」
「相変わらず、ロマンの分からんヤツだ……まぁいいか。読めなくても暗記してるし」
「うわ。も、知らないっ……」
 美希はいよいよ呆れ果てたらしく、投げやりな声に続いてばふっと布団をかぶる音がした。いつものやりとりだな、と苦笑した直後。
 勇弘は、思わず手の甲で目を擦った。
「それで、続きだけどな? 目目連ってのは――」
「あ〜〜〜、ええと……その。なァ、父さん」
 布団の上に起きあがり、勇弘は気の抜けた調子で呼びかけた。
「どうした、ユウ? この妖怪は知ってたか?」
「まぁ……知ってたってゆーか。見た」
「見た!? な、なんだって、本当か!? いつだ!?」
「んっと……今」
 へ、という呟きが聞こえ、継いで沈黙が生まれた――おそらく、父も見たのだろう。
 ぴったり閉めた縁側のガラス戸に、びっしりと張り付いた大量の目を。
「……おめめー」
 美織が呟くが、勇弘はリアクション不能だった。ぎょろりぎょろりと動く無数の目。目玉ではなく、楕円形の輪郭をもったそれらを、ただただ呆然と見つめ続ける。真っ暗な闇の中だというのに、それらの目は周囲の空間から浮き上がったように、くっきりと容易に視認できた。それがなぜなのか分からないし、知りたくもないし、なによりまったくありがたくもなんともないのだが。
「ん……何? どうかしたの?」
「あ〜、いや。母さんは、そのまま布団被ってたほうがいいんじゃないかな」
 声に、なんとかそう答える。途端、窓いっぱいに広がった目が一斉に勇弘を注目――まさに注目し、うっと呻いて言葉を切るより他なかった。
(なんなんだ……? 一体なんなんだこれは!?)
 たった今、正弘に見せられた絵とまったく同じ状況が、目の前で展開されているのだ。胃が縮こまるような緊張を覚えて、勇弘はごくりと唾を飲み込んだ。
 まさか、ここは――本当に。
「な……なんなの? これ……?」
 さらに間の悪いことに、震えたような芯のないような、呆然とした美希の声が聞こえた。勇弘の忠告を聞かなかったらしい。次の瞬間。
 勇弘に向いていた全ての目が、ぎろッと美希のほうを睨んだ。
「きっ……きゃああああぁぁぁあああああ〜〜〜ッ!?」
 バッと布団が蹴り飛ばされる音。継いでがきんッと思いきり紐が引かれ、蛍光灯が点灯する。
 その、一体どのタイミングで消え失せたものか、部屋が明るくなった時にはもう、目の大群はいなかった。
 沈黙。息を荒らげて悲鳴の残滓を引きずっていた美希は、引きちぎった蛍光灯の紐を持ったまま、その場でガタガタと震えだした。
「な、なにっ……一体、一体なんなのよ今のはッ!?」
「今のは、間違いなく目目連だ!」
 同じく立ち上がり、満面の笑顔で言ったのは無論正弘である。彼は枕元(常備しているのである)に置いてあったカメラを取り、ぱしゃぱしゃと縁側に向けてシャッターを切りながら、
「いやぁ〜びっくりした! まさかあんなにはっきり見えるとはな! 初体験だよ! 素晴らしい!」
「何が素晴らしいのよ!? こ、怖かった……怖かったっ……!」
「ちょ、ちょっとまて、父さん。今のは……その。マジで?」
 じっと縁側を見つめて言う勇弘に、父は情け容赦も悪気もなく、思いっきり頷いた。
「もちろんだ! 物にびっしり連なった目、間違いなくこの世のもんじゃない。やっぱり、ここは幽霊……いや、違うな。そう、あれは妖怪だから、そうだ。妖怪屋敷なんだ、ここは!」
 勇弘は奥歯を噛んだ。胸中で毒づく。
(なんてこった……ああまではっきり出てこられちゃ、確かに他に説明の仕様もないけど。くそっ、マジか!? 初日からコレかよ!?)
 背後を、障子の向こうを振り返る。見られているような気がした――四方八方から、上下左右から。窓の向こう側から、窓のこちら側から。写真を撮る父の向こうから、怯える母の後ろから、あらゆるところから自分たちは見られている。そんな気がした。
 勇弘は、大きく息を吸い、吐いた。それでも、胃の緊張がおさまらない。ひしひしと感じる異様な空気。
 この家には、妖怪がいる。それだけは間違いないらしいが、
「そんなもん、どうすりゃいいんだっ……!?……?……」
 ふと、部屋が薄暗くなったような気がして、彼は何の気なしに天井を見上げた。たちまち、見なければ良かった、と後悔する。
 天井から、物理法則をまったく無視して、蛇の胴のようなぐねぐねと長い物体が垂れ下がっていた。それはいつか映画で見た、ジャングルで人を襲う巨大蛇のように太く巨大で、蛍光灯を覆い光を遮るようにうねりくねっている。そしてその先端に、なぜか人の上半身がくっついていた。顔も確認できないざんばらな黒髪の間から、一対の赤い光が彼らを見下ろしている。
 呆気にとられた後、勇弘は頭を抱えた。強く、短く呟く。
「……なんっだこりゃ!」