妖しの心 4


 ここのところ、勇弘は一人の時間ができると書斎を訪れている。といってもまだ二、三度のことで、読書の進み具合のほうも、ようやく一冊目の半分に達そうかという程度だが。元々活字には慣れがない上、読み進めている本の内容は簡単なものではないのである。
(つーか、ぶっちゃけあんま理解できてないしな……)
 彼は窓際に座布団を置き、壁にもたれるように腰を下ろした。ページを開く前に、なんとなく表紙に目をやる――『妖怪 日本人の精神』。著者には利根弓桜造、とあった。
「随分、熱心でございますこと……勇弘様も、本がお好きなのでございますね」
「いや……実はあんまり、こういう読書の経験はなくて。あ、ども」
 鬼蜘蛛が傍に正座して、盆に載せた湯飲みを差し出してくる。軽く会釈して受け取り、一口飲み、冷たい麦茶の爽やかな喉ごしに小さく息をついて――そこでようやく驚いた。
「え!? な、む……麦茶。これ、えっ、どうして……?」
 ナチュラルに受け取ってしまったが、妖怪が人間に茶を出すなどと。というか今、山神家は茶葉など買っていないはずなのだが。
 うろたえる勇弘に、まぁ、と鬼蜘蛛は笑った。
「あたくしとて、些少ではございますが、人間のことを学んでおりますもの……お茶をいれる、くらいの知識はございますわ」
「そ、そうなんですか……その、さすがにちょっと、意外だったもんで」
「お気になさらず……実のところ、誰かにこうしてお出ししたのは初めてで。いささか、どきどきしておりましたのよ」
 うふふふ、と着物の袖で口元を隠して笑う。時代の壁をすっ飛ばしたような親しみに、勇弘はぽりぽりと頬をかいた。彼女はにこやかに続ける。
「水が美味しゅうございます故、大丈夫だろうとは思いましたのですが。お口に合いますでしょうか……? お屋敷の地下を流れる、冷たい水を汲ませましたのよ。裏の井戸は枯れておりますが、水脈は生きているのです」
「へぇ〜。話には聞いてたけど、地下水ってすごい冷たいんですね。……ところで、お茶っ葉は?」
「茶葉は、以前ここに住んでおられました、人間の方が遺されたものを使わせていただきました。思えば、随分とお懐かしゅう……もう、二十年ほど前になりますでしょうか」
 ぶッ
 盛大に茶を吹き出す勇弘。二十年とはこれまた、問答無用の圧力というか、信じられない年季の入り方である。普通毒物化しているのではあるまいか。そういえば、味は麦茶であるのに、どうしてこの液体は緑色なのだろう……?
 しかし、当の鬼蜘蛛はきょとんとして彼を見つめた。
「……いかが、なさいました。お口に合いませなんだでしょうか……?」
「う……。い、いえ、なんでもないです。ちょっと咽せちゃっただけで……」
「あら、まぁ……」
 ゆっくりお飲みくださいまし、と笑う彼女から目を逸らし、勇弘はハハハと乾いた笑みを浮かべた。どうやら妖怪には、賞味期限という概念そのものが存在しないようである――賞味すること自体ないのだろうから、考えてみれば当然だが。
 しかし、こんなものを飲み干せば、腹どころかおそらく命に関わる。この際、ちゃんと教えておくべきなのだろうか。
「その本……」
「えっ。あ、はいっ?」
 なんとなく焦ったような返事になる。鬼蜘蛛は背筋をしゃんと伸ばし、美しい正座の姿勢を保ったまま、しかしどこか覗き込むように彼の手元に目をやった。
「あたくしどもに――妖怪について書かれた、氏の名著でございますね。さすが勇弘様、お目が高うございます」
「はあ……その、俺にはちょっと、難しくてわからないところも多いんですけど。いい本なんですか?」
「ええ。あたくしの気に入りでございますわ……この著者のお方も、最初は駆け出し民俗学者に毛が生えた程度がむやみに背伸びしたような、気取りつつ的を外した失笑ものの論文しか書いていなかったのですけれど」
 にっこり笑顔でドギツい発言である。垣間見えた本性に、引きつりを隠したなまぬるい笑みを浮かべていると、彼女は本を片手で示して、
「その本を著されたあたりから、急に、なんでしょう……面白くなって参りまして。妖怪のあたくしから見ても、成る程と思わされることがよくございますわ。お父上様なら、きっとご存じでございましょう」
「ああ、ええ……父さんは、まぁ、あの通り妖怪マニアですから。この人の本も、何冊も持ってるみたいだし」
「まぁ」
 また口元を隠してころころと笑う。と、ふと気づいたように鬼蜘蛛は小首を傾げた。
「では……勇弘様は、なにゆえに? やはり、お父上様の跡を継ぐべく、妖怪マニアの道を目指されているのでございましょうか」
「いや、できればそんな涼やかな声でヤなこと言わないでほしいんですけど……。でも、ま、似たようなものなのかな。妖怪について、もっと……その。知ろうかな、とか思って」
 なぜか口籠もるように言葉を濁してしまい、勇弘は思わず苦笑した。湯飲みを直接絨毯の上に置き、分厚い本をぱらぱらとめくる――今朝の、正弘の言葉が脳裏をよぎった。
 彼らの理論が、妖怪に出会って打ち立てられたものなのかどうか。
 この世のものではない、その存在に直に触れた論説でなければ、今の勇弘たちが参考にすることはできない。そして、書に著されたことのどれがそれに当てはまるのかを、読んだだけで判断するのは大変困難なことなのだ。
 勇弘はなんとなく、『はじめに』と題されたページの、冒頭の一節を音読した。
「『妖怪とは、其の人の知識、見解の範疇を踏み越えたものに対して名付けられる新たなカテゴリの総称であり、故にそれは、其の人の精神に完全に依存するものである』……これは、本当ですか? 鬼蜘蛛さん」
 鬼蜘蛛は、黙して語らない。柔らかな微笑を浮かべて、勇弘に先を促しているようだった。
「なにかわからない、特に恐ろしく思えることに対して、人間が妖怪のレッテルを貼る……風に舞う布を一反木綿に、賢い猫を猫叉に、川での事故を河童に。色んな本に書いてありますけど、妖怪はそうして生まれるんですか? つまり……その、そうなんですか」
「それは、あたくしにもわかりかねます」
 変わらない、落ち着いた上品な口調で、しかしきっぱりと鬼蜘蛛は言った。盆を傍らに置き、その上に湯飲みを乗せて――突然、ひらりと語調を変える。
「人間はいまや、科学の力で己の祖先の姿をも、捉えることができますのですねぇ」
「……え?」
「遙かな昔……およそ文明的な記録など残しようもない、太古というべき時代のかたちも、人間は推測することができます。様々な物証を照らし合わせ、繋ぎ合わせ……どんなことでも解明してしまう。今では、自らを構成する成分の如何すらも、科学の力で解き明かそうとしておりますでしょう……素晴らしいことでございます」
 なんと博識なことか。
 勇弘は驚きのあまり、何を言うこともできなかった。そんなことを知っている妖怪など、まさに彼女をおいて他にはいまい。この部屋に山と積まれた本も、きっと全て読んでいるのだろう。感心以外にすることもなかった。
 同様に、と続ける鬼蜘蛛の視線が、勇弘の瞳を真っ直ぐに捉える。
「哲学的思考と、自らの内を模索する高度な精神論によって……人間は、あたくしども妖怪の存在を、勇弘様が仰ったように定義づけたのでございましょう。ですが、では――」
 するりと白い手が伸びてきて、勇弘の頬に触れた。ひんやりとした掌に、ビクッと肩をすくめてしまう。
 鬼蜘蛛は、膝を立てて身を近づけ、勇弘の顔を両手で包んだ。さらりと流れる黒髪の奥、稀にも見ないほど端正なその顔に、一際深い笑みが宿る。
「あたくしは……? 勇弘様。このあたくしは、一体……何なのでございましょう」
 それは、思わず見惚れるほどの艶然さと、なにかしらの仄暗い期待とを同居させたような表情であり――わずかに不安を覚える彼に、鬼蜘蛛はゆっくりと顔を近づけてきた。