妖しの心 6


 しばし、沈黙が続く。
 やがて市松人形は、ふるふると首を横に振った。黒い瞳からは何も読み取れないが、小さな小さな声が聞こえる。
『いい。……いいの。あげゆ』
「え?」
『その毬、あげゆ。あげゆの。……いっしょにあそぼ』
 最後の言葉だけ汲み取って、美織は満面の笑顔で頷いた。子供が使う高さに合わせ、あまり弾まないようになっているその昔懐かしいおもちゃを、またてんてんとつきはじめる。
『♪いちじくニンジン、山椒に椎茸ごぼう、むかご――』
 合わせて、人形が唄いだした。心なしか巧くなっている。そういえば、どうして人形がそんな歌を知っているのだろうと美織は思ったが、楽しいので深くは気にしなかった。
『♪七草白菜、キュウリ、冬瓜』
「できたぁー!」
 毬を受け止めて、また笑う。心なしか、市松人形の口元にも、再び笑みが生まれているように思えた。
『♪いちじくニンジン、山椒に椎茸ごぼう……あっ?』
 繰り返される数え歌に、今度は円の真似をして、途中でくるりと回ってみた――のだが、爽快なまでにバランスを崩してすてーんと尻餅をついてしまう。石畳なので痛かったが、それでも美織はにひーと笑った。人形も、今度は間違いなく、呆れたような笑みを浮かべた。
『――♪山椒に椎茸、ごぼう、む、う、うあっ』
 今度は人形が毬を拾い、同様に回ろうとしたものの、やはりぺたんと尻餅をついてしまった。きっと、何が起こっても笑ったのだろうが、美織は一際大きく笑った。ひょんなことから新しい友達を作れたような、うきうきした気分がとても快い。
 人形にも表情が生まれていた。てちてちと石畳を叩いて悔しがっているようだったが、笑い声を聞くと一瞬きょとんとし――やがて唇の端をひき、にっこり笑った。美織の破顔に比べれば、それはそれは小さな笑顔であったが、笑っていることに変わりはない。
 彼女らは一頻り、毬を挟んで笑い合った。
 と、
「あら……? ミオちゃん」
 二人が立ち上がり、美織が毬を拾い上げた時。カラカラと門が開いて、美希が帰ってきた。面接の成果は上々だったのか、機嫌の良さそうな笑顔である。
「あっ、ママ。おかえりなさーい!」
「ただいま。あら……お人形さんで遊んでたの? 良かったわねぇ、パパが見つけてくれて」
 きょとんとしている市松人形に、美希はすたすたと近づいた。動かない彼女をひょいと抱え上げ、あら意外と軽いのね、などと呟いている。
 普段の美希からは考えられない気安げな態度に、美織であっても違和感を覚えた。人形と母を交互に見ながら、きょとんと首を傾げる。次いで、パッと表情を明るくした。
「わぁ〜〜〜。ママ、よーかいさん大丈夫になったんだね! やったぁ!」
「え? あははは何言ってるの、ママは全然ダメ。だって妖怪よ? オバケよ? 頭で理解しても、どーしても本能が――」
『はなちて』
「拒否して……えっ?」
 笑顔のまま、抱えたそれに目をやる美希。
 しっかりと彼女を見上げて、人形は小さな口を開いた。
『はなちて』
 一瞬後、
「ぎっ……ぎょーえぇぇぇぇぇぇッ!?」
 やはりこうなる大絶叫。蒼穹に悲鳴を響き渡らせ、美希は無我夢中の体で妖怪を放り投げた。為す術もなく宙を飛ぶ、市松人形が向かった先は――


 意図の読めない微笑みに、勇弘はなんとなく後ずさった。しかし、元々壁際に座っていたのだからして、すぐに退路を失ってしまう。別に逃げたいわけではないが、小さいしこりのような不安があった。
 笑んだまま、鬼蜘蛛が言う。
「今、勇弘様に触れております、このあたくしは如何なるものなのでしょう……? 妖怪は、人間が目に見えぬ恐怖に狂わぬよう、勝手に定めた偽りの形」
「え……ええ。でも、だと――」
「そう。然らばなにゆえに、あたくしは目に見え……こうして、触れることがかなうのでございましょうか。恐怖の影ならばなぜ、想像の産物ならばなぜ、勝手な幻ならばなぜ……あたくしは貴方様と、こうして語らえるのでございましょうか」
 学術書にある定義と食い違う、リアルな存在としての妖怪。
 そこを強調する彼女の指摘は、正弘の考えと一致する。しかし一体、何のどこが間違っているというのか?
 鬼蜘蛛は、真っ直ぐに見つめてくる。問いの答えを求めているようでありながら、しかし彼女の期待はそこにない気もした。どうしていいかわからず、勇弘は戸惑いながら見返して――うっ、と呻いた。
 彼女の瞳の中に、八人の勇弘が映っている。
 右目の中に四人。左目の中にも四人。四等分された瞳の中で、呆けたような顔を晒している。ヒトのものでは有り得ないその瞳が、す、と愉しげに細められた。
「あたくしの姿を……お見せいたしましょう。勇弘様」
「……え?」
 なにを、と思う暇もなく、頬から冷たい感触が消えた。鬼蜘蛛は優雅に立ち上がり、しばしお待ちを、と言い置いて、縁側へ続くドアを開けて出てゆく。
 しばし、気の抜けたようにそちらを眺めて――勇弘は、大きく息をついた。まるで忘れていたことのように、体の内から胸板を叩く、激しい鼓動を意識する。
「い……息止まるかと思った……」
 それは、まったく正直な感想であった。あんな風に妖怪に触れたのは、もちろん初めてのことだったし、そしてあんな雰囲気で女性に――人間妖怪問わず――接近されたのも、やはり初めての経験だった。いかに妖怪とわかっていても、目がちょっと具体的におかしくても、やはり鬼蜘蛛は美女なのである。それも、抵抗不能なほど妖艶な魅力をもった。
「……って、ん?」
 表が騒がしいように思えて、勇弘は振り返った。立ち上がるのが微妙に億劫で、窓の隅から門のほうを窺う。いつの間にやってきたものか、遠峰円が美織と一緒に、毬つき遊びに興じているのが見えた。
「うわ。あのバカ。知らない人来たら報せにこい、って言っておいたのに……!」
 もちろん、美織が報せにきたら、円を家に入れない方針であったのはいうまでもない。勇弘はすぐに立ち上がろうと、窓の桟に手をかけ――
 ズン
 ――たところで、色々と動きを止めた。目に見える類の動作はもとより、思考までもが一瞬停滞する。今、なにやら凄まじく現実的でない音が、腹の底にまで響いた気がするのだが……おそらく、背後から。
 信じられないほど嫌な予感、というか確信寄りの悪寒が去来する。しかしそのままでいることもできず、彼はゆっくりと、書斎の奥を振り向いた。一瞬、目の焦点が合わず、そして合った途端に意識が飛びそうになる。
 書斎の半分を完全に埋め尽くす、巨大な蜘蛛がそこにいた。
(や……やっぱ、そうきますか……)
 黒く長い脚を折り畳み、それでもなお邪魔そうに天井をこすって、ソファの上にのしかかっている。小さな家ならまたぎ越せてしまうのではないかと思えるほど、それはそれは巨大な蜘蛛だった。
 ぽかーんとただ眺めていると、八個の単眼がぐりりっと勇弘に向いた。次いで、畳一畳ほどもあろうかという顔面の中央から、ずるっと人影が抜け出てくる――蜘蛛の表皮と同色の和服を着た、長い黒髪の美しい女性。
 鬼蜘蛛は、勇弘を見てにっこりと笑みを浮かべた。
「これが、あたくしの常なる姿でございます」
 勘弁してあげてください、という切実かつ妙に第三者的な念が、勇弘の心を占拠した。
 美希が卒倒したのも無理はない、と必要ない部分で納得する。こんな世にも凄まじいビジュアル、子供が見たら夢に出るどころか、トラウマに残って一生蜘蛛に怯え続けることになるだろう。美織の場合は、いまいち反応が予測できないが。
 本体――なのだろう、きっと――から全身を抜き出した鬼蜘蛛は、引きつった笑いを浮かべる勇弘に向かって、いつもと変わらない淑やかな所作でゆっくりと近づいてくる。しかし、いつもと様子が違っていた。仕草や表情はどうあれ、いつもより濃く滲み出る妖気がどうにも勇弘を落ち着かせない。
 というか、
「あ、あ……あの、鬼蜘蛛さん」
「なんでございましょう……?」
「その、ですね。……ソレは、何?」
「あら。まぁ……勇弘様ったら、ご冗談を」
 口元を隠さずに微笑み、鬼蜘蛛は逆手に持ったそれを少し掲げてみせた。普段、台所に置かれている、むしろそこから持ち出してはいけない道具。
「これはもちろん、包丁でございますとも」
「いやあのそれはほらわかるんですけど。一体それをどう、って、な――」
 勇弘の言葉が終わらないうちに。
 鬼蜘蛛は、ステンレス製の包丁を自らの帯のさらに内側に差し入れ、一瞬のためらいもなくそれを切り裂いた。