妖しの心 7


 バッ、と帯と着物が同時に舞う。人外の膂力で、無理矢理引き切られた所為だろう――しかし、当たり前だがそれよりも。
 勇弘の脳は、突然遮るすべてを失った、蠱惑的な肢体に目を奪われることに反射的に抗えなかった。否。実際は反射的にどころか、その瞬間から痺れたように熱を帯びた心のどこかが促すまま、能動的にも抵抗することができなかった。
 実に白昼その一瞬で、彼は鬼蜘蛛に見入ってしまったのである。
 計算し尽くされた彫刻のような気高さ。なめらかな曲線が示す理想的な肉感。得難いふたつの美酒を混ぜ合わせたような、得も言われぬ陶酔境が、白磁の肌の指揮するもとで見事に完成を遂げている。乳房の丸みや腰の膨らみ、そんな局所的な話ではない。視線を忙しなく這わせるだけで、その香りを、味を、弾力を、想い描かずにはいられないのだ。
 それほどまでに、彼女の裸身は人外のごとき凄艶さを帯び、勇弘の五感と理性のすべてを、まばたきする間に捕らえてしまったのである! 残っているのは本能のみ。抜け出す術など、あろうはずも――
(ちょ、や、まて。落ち着け俺。鬼蜘蛛さんは妖怪だろが……人外のごときって、実際人外なんじゃないか!)
 割とあっさり理性を取り戻し、勇弘はバッと顔を背けた。ほんの二、三秒のことのはずなのに、顔が驚くほど熱く火照っている。彼とて年頃の日本男児、そういう方面に触れることが皆無なわけではもちろんなかったが、これはいささか強烈に過ぎた。
「なるほど、確かにあたくしなどは……大方の人間の常識を、はみ出した存在なのでございましょう」
 思い過ごしなのだろうか、優しく鼓膜を打つ声までが、どこか甘い調べを帯びている。
 真正面に座り込み、鬼蜘蛛はにっこり微笑んだようだった。いまだ手にしていた包丁を傍らに置き、手をついて身を乗り出してくる。
「なれど、あたくしは影ではございません。実のない幻でもございません。自らのみで成る意識と、あれあのような肉体と……そして、鬼蜘蛛という名をもった、一個の存在でございます」
「や、あ、あの……鬼蜘蛛さん、ちょ、は、離れてください。気を落ち着けますんで――」
「落ち着く……? いいえ、必要ございません。この人の姿も、自ら生み出した偽りに過ぎませぬが、それすらも……ほら。勇弘様」
「う、うぅぅぅわっ……ちょっ……!?」
 ゾクッ、と異様な震えが背筋を走り抜け、勇弘は思わず声を上擦らせた。また、意識が陶酔に連れ去られそうになる――鬼蜘蛛が、冗談のようにあっさりと、彼の懐に入り込んできたのだ。まさしく巣に座する蜘蛛がごとく、罠にかかった哀れな獲物に、やんわりと四肢をすり寄せてくる。それはまったく未曾有のとんでもない快感で、勇弘の全神経は刹那、自らの支配をも退けた。
 そしてその痺れが消えた時には、もう完全に鬼蜘蛛に抱きすくめられる格好になってしまっていた。先程とよく似た状況だが、ひとつ大きな違いがある。勇弘にはもはや、彼女の奇妙な瞳の中に何人の自分が映り込んでいるかなど、気にしている余裕もなかった。
「いかがでございます……勇弘様? こんなにも、触れ合うことができますでしょう。あたくしどもと、人間は」
「そ、それはわかりましたから……とりあえず、とりあえず服を着て――」
「あら。これは異な事を仰います……勇弘様がお知りになりたいのは、こういうことではございませんの?」
 な、と勇弘は視線を落とした。極度に密着しているおかげで、色々と際どい部分は逆に見えないものの、状況はもう見える見えないの次元をとっくに通り越している。彼女は一体、何を考えているのだ? どこかで聞いた昔話に、蜘蛛の化け物は人をとって喰う、などというものがあった気がするが。まさか――
「あたくしにも、知りたいことがございます……」
 鼻先で勇弘の耳をくすぐり、吐息とともに囁いた後、鬼蜘蛛は少し身を離した。途端、豊満という字を形で教える、重たげな乳房がぷるんと揺れる。なけなしの理性をはじめとする色々なものを吹き飛ばされそうになって、勇弘は再び顔を背けた。ついでにギュッと目も閉じる。
 今更冷静になっても遅いだろうが、しかしまったくわけがわからなかった。喰われるわけではないようだが、ならばなぜこんな脈絡のないことを? 彼女の言う『知りたいこと』と、自分を誘惑することに、一体どんな関係があるというのか。
 彼女は自分に何をさせたいのだ?
(なんか、くそっ……嫌な気分だ……!)
 昂ぶらされている。いまだ五感を震わせる圧倒的な快感から、ほんの少しだけ剥がれ落ちてくれた受動的な苛立ちを、彼は大事に自覚した。どこをどう間違えてこんな展開になったのか、それを考える余裕すら既にないが、なんとしても拒否しなければならないのはわかる。
 鬼蜘蛛が、再び身を寄せてきたらしい。勇弘はどうにか怒りを育てて、それを押し返そうとした。胸に押しつけられる柔らかな何かからは、辛うじて意識を逸らせたが――耳元で紡がれる声だけは、優しく誘う囁きだけは、精神論では如何ともしがたい。
「様々な書を読みました。様々な説を解しました。しかしそのいずれも、あたくしが……あたくしどもがここにいる理由として、納得のゆくものではございませんでした。けれど勇弘様、貴方様の疑問を解消すれば……きっと、きっとあたくしのそれも」
「お……鬼蜘蛛さん、いい加減にしてください。それと、こ、これとに、なんの関係があるんですか!?」
「あたくしは、夢幻などではございませぬ。ならば……あたくしのこの身体のナカは、一体どうなっておりますのでしょうね?」
 ぐっ、とのどの奥で呻き、勇弘は目を見開いた。
 鬼蜘蛛を見る――彼女の笑顔は、まさしく妖艶であったものの、言葉が示す以外の意思はないように思えた。彼女の体内が、どうなっているのか。
「そういうことで、ございましょう? 勇弘様の疑問とは……あたくしどもが生物なのか否か。生物ならばどういう類か、生物でないのならばいかなる存在か。それをお確かめになりたい……そうでございましょう」
 その通りだ。そういうことになる。
 しかし勇弘は頷かず、ひとつ大きく深呼吸した。
 妖怪が、人間の想像力の産物であるなら、目には見えないはず。触れられもしないはず。勇弘は、あえて精神的な観点から、その理由を模索していたが――妖怪の視点ではなく、人間のそれから考えてみれば、そこに行き着くのは当然であった。自我を持ち、動き、触れることができる。それはつまり、生物ではないのか。妖怪とは、あの世の住民などではなく、実はこちら側の世界に住む希少な生き物なのではないのか?
 もちろん、それも一面的な考えだ。そんな単純な問題でないことは、彼らが物理的常識に真正面から対抗するような行動――壁の中に消えたり、宙を漂ったり、突然でっかい蜘蛛になったり――を、平然とやってのけることからもわかる。
 しかし、そんな彼らが一体全体、どういう理屈で存在しているのか。
(妖怪が何でできているのか……それを知れば、確かに色々なことがわかるだろうな。妖怪はつまり何なのか、っていう俺の疑問にも……答えが出るのかもしれない。けど)
 違う。何かが違う。やはり、それとこれとは関係ない。そう言おうとした勇弘は、またしても息を呑んだ。
 鬼蜘蛛の顔が、これまでで最も近くにある。
 鼻先が触れ合う、それ以下の距離だ。妖怪であるという最後の戒がなければ、何がどうなっていたかわからない――濡れた瞳はあくまでも笑み、いざなう意思を隠そうともしない。これを魅惑的といわず、何というのか!
「試してみようではありませんか……? いつかの夜のお言葉通り。勇弘様、あたくしを使ってくださいまし」
「や……やめて、ください――」
「なにゆえに? 勇弘様ならば、よろしいのです……あたくしは何でもいたしますもの」
 ですから、と訴える鬼蜘蛛の片腕が、優しく首に回される。もはや彼女は、ぴったりと吸い付くように、己が身を勇弘に絡ませていた。ふっくらとした朱唇から、なお足りない何かを求めるがごとく、ちらりと赤い舌が覗く。
 離れなければならない。拒否しなければならない。そう強く思いはするものの、腕に力が入らなかった。瞳の中の八人の彼は、まるで湯だったように真っ赤である。しかし、頼みの怒りはうまく育ってくれない――まさに進退これ谷(きわ)まれり。
 絶体絶命を自覚して、そうだ叫ぼうと思いついた時。とん、と鬼蜘蛛は勇弘の胸に、固い何かを押しつけてきた。
「……へ?」
 見下ろすと、それは例のステンレス包丁。反射的に受け取ると、
「さぁ、勇弘様!」
 感極まったように身を逸らして、鬼蜘蛛はあくまで妖艶に叫んだ。乳房の頂を片手で隠し、もう片手を誘うように伸ばす。
「どうぞあたくしの腹を裂き、頭を割って、存分に中を確かめてくださいまし!」
 飛びかけていた理性が一斉に復活し、勇弘は図らずもめまいすら覚えた。
 熱を帯びていた顔面から、音を立てて血の気がひいてゆく。にこっ? と笑う鬼蜘蛛の、全ての妖艶さが間抜けさに変換された。ナカ、とは――彼女の言う、ナカとは。
 渾身の力で彼女を引き剥がし、勇弘はぶるぶると震えながら言った。
「お、おに、鬼蜘蛛さんっ……あんたなァ――」
『ぎょーえぇぇぇぇぇぇッ!?』
 という盛大な悲鳴が響き、二人が動きを止めた直後。
 頭上の窓を突き破って、何かが室内に飛び込んできた。