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妖しの心 8
「い、痛ッてぇ……う。ぅお」 「勇弘様! お怪我はございませんか」 「や、け……怪我はないです。怪我は。というか、その……ううう」 何かが上に乗っている。乱暴に押し倒された際に頭を打ったようだが、その痛みをも意識できないような、楽園的な柔らかさ。顎の真下にある男の浪漫から、目を固くつむることで逃避を試みていると、不意にその重さがふっと消えた。珍しく焦ったような、鬼蜘蛛の声が聞こえる。 「市松……? 市松! どうしたのです、市松。しっかりなさい!」 『きゅ〜〜〜〜〜……』 おそるおそる目を開けてみると、内向きに破れた窓が見えた。周囲に散らばるガラスの破片に触らないよう、注意しながら身を起こす。ソファの前に倒れた、一体の市松人形――今朝見つけたものではなく、妖怪化しているほうだ――を、鬼蜘蛛が抱き起こしているところだった。 「い、一体……いてっ!?」 いつの間にか、奥に座していた大蜘蛛が消えている。彼女も、自ら切り裂いたはずの和服を、なぜかしっかりと身に着けていた。そこらへん理屈ではないらしい。 「勇弘様、動いてはなりませぬ。床を清めるまで、どうかそのまま」 「はい……大丈夫です。というか、一体何が?」 鬼蜘蛛に抱かれた市松人形は、両目をくるくると渦巻き状にして、わかりやすく目を回していた。外から窓にダイブしてきたのは、どうやらその人形で間違いないようである。しかし、どういうわけで? 首を傾げていると、バタンッと玄関に続くドアが開いた。いつ帰ってきたものか、美希が勇弘を見て息を呑む。 「ゆ……ユウちゃん。大丈夫!? 怪我は!?」 「ああ、なんともないよ。けど母さん、これは何がどう――」 「美希様」 彼の言葉を遮って、鬼蜘蛛が立ち上がった。気を失った――という表現が、妖怪にとって適切かどうかはわからないが――ままの市松人形を抱えるその表情には、先程までの間抜けさ加減など欠片も見当たらない。 その場の空気自体を鎮まらせ、彼女は心もち抑えたような声音で言った。 「市松に一体、何を……? この子が何か致しましたのでしょうか。あまりに、穏やかなりませんが」 「あ……そ、その。何か、ってゆーか……あたし、び、びっくりしちゃって。でも、こ、こんなコトするつもりは……」 萎縮しすぎ、どもりすぎである。なにやら悪怯れているのは見て取れるが、つまり外で何があったのか、勇弘にはさっぱりわからない。 だが、鬼蜘蛛の目尻はキリキリッとつり上がった。 今の要領を得ない釈明だけで、大体の状況を把握してしまったのだろう――立ち上がっただけで場をおさめたのと同様、ただそれだけで今度は緊張をもたらす。美希が怯えつつ唾を飲み込む、引きつったような情けない音が、勇弘にまで聞こえてきた。 (なんか、ヤバそう……?) どう口を差し挟もうか思案した直後。 凶悪な鋭角を描いていた鬼蜘蛛の目元が、ふっと緩んで半眼になった。普段通りの茫洋とした表情で、しかし美希に何を言わせるでもなく、 「この子の……治療をして参ります」 と一言だけ残して、いなくなってしまった。見えない壁の向こうへさっと隠れてしまったように、忽然と気配ごと消え失せる。 しばらくの間、沈黙が落ちた。事情がまったくわからない勇弘は、いまだ立ちすくんでいる美希の背後に目をやり――顔面のデッサンを豪快に崩して泣きじゃくっている美織を見、もう何度目になるかわからない質問をまた繰り返した。 「……一体、何があったんだ?」 応えは、ずりずりーと鼻をすすりあげる、情けない音だけだった。 「と、いう次第らしいのでございます」 畳に正座した鬼蜘蛛は、静かな声音でそう言った。 夜の帳が降りて、随分になる。書斎に散らばったガラス等を片づけ、増えてしまった割れ窓にダンボールを張り、それから夕食を済ませていると、かなり遅い時間になってしまったのだ。後は風呂だけとなった頃、書斎から出てきた鬼蜘蛛が、美希に話があると言ってきたのである。 美希にとはいえ、と勢揃いした山神一家に対し、彼女は普段通りの態度で、市松人形から聞いたという事のあらましをつらつらと述べた。ちら、と美希に視線を向け、穏やかな声で確認する。 「相違、ございませんか……? 美希様」 「う、そ、その……は、はい……」 正弘の背後に半ば隠れて、美希。巻きシーツには変化していないが、如実に怯えた様子である。しかしなんともアホらしい――と、勇弘は呆れてため息をついた。 美希からも事情は聞いたのだが。つまり、普通の市松人形と思って抱き上げたのが実は妖怪で。しかも突然喋ったものだから、びっくりして放り投げた、と。 鬼蜘蛛がかばってくれなければ、勇弘もガラスの破片で大怪我をしていたかもしれなかったのだが。こうまで原因がくだらなすぎると、まともに怒る気にもなれはしない。 (でも、鬼蜘蛛さんは……やっぱ怒ってんのかな) すっと背筋を伸ばした綺麗な姿勢で、ただ美希だけを彼女は見つめている。市松人形が飛び込んできた時は、いつかのごとくキレてしまうのではないかと思うほど、危なげな雰囲気だったのだが――今は随分と平静に、事をひとつひとつ確認しようとしているようだった。 しばしの沈黙を挟んだ後、やや悲しげに目を伏せて言う。 「美希様は……妖怪を誤解しておられます」 「誤解?」 呟く正弘に頷いてから、彼女は勇弘に目を向けた。 「実のところ……あたくしども妖怪は、自らを探るということをいたしません。存在を弁えてはおりますが、たとえば人間がするように、科学の力で己の成り立ちを究明する、などということは……あたくしの知る限り、一切行われていないのでございます」 書斎で話した内容に沿っている。以前にも聞いたことだが、鬼蜘蛛は人間のそういうところに、本当に傾倒しているようだった。ほとんど羨望に近いのかもしれない。 なれどそれでも、と彼女は小さく首を横に振った。再び美希に視線を戻して、 「美希様には誤解があると申せます。いいえ、あるいは……正弘様や勇弘様におかれましても、これに関しましては、正しく認識しておられないやもしれません」 「……それは?」 「妖怪は不死身ではない、ということでございます」 不死身、という部分を口にする時、わずかに彼女は眉をひそめたように見えた。自分の胸を掌で示し、穏やかな口調に真摯さを滲ませて続ける。 「妖怪とて、痛むのでございます。きっと、人間のそれとは意味合いも内容も異なるのでしょうけれども、妖怪とて痛みに啼くのです……そして、やはりきっと、人間のそれとは在り方が異なりますでしょうけれど。妖怪とて、死ぬのでございます」 「いやあの」 思わず半眼で呻く勇弘――腹を裂けだの頭を割れだの、物騒かつ色々と紛らわしい要求を彼にしてきたのは、他ならぬ鬼蜘蛛当人である。正弘たちは知らないことだが、その舌の根も乾かぬうちにそんなことを言われても、さすがに説得力に欠けすぎる。 そう口に出しこそしなかったが、鬼蜘蛛はふるふると首を横に振った。 「あたくしのことは、よろしいのです……多少のことでは死に至りませぬ。これでも、ほどほどに齢を重ねております故」 「はァ」 「しかし市松は、その限りではございません。あの子にとって、どの程度の傷害が致命傷となるのかは、あたくしも存じませんけれども……美織様は」 言葉を切って、視線を移す。 美織は小さな膝を抱えて、兄の斜め後ろに座っていた。どよよんと暗い拗ねた表情で、一瞬鬼蜘蛛のほうを見るが、すぐまた唇を尖らせて下を向く。 夕方からこっち、ずっとこんな調子が続いているのだ。一言も口をきかず、むっつりと食事を摂り、特に美希とは目を合わせようともしない。今日は勇弘が彼女を風呂に入れたのだが、湯船の中でもだんまりを決め込み、体操座りで壁を睨んでいた。絵に描いたような不機嫌っぷりである。 鬼蜘蛛は、ようやくわずかに微笑んで言った。 「何かを、感じておられたのでございましょう。妖しのために人が泣くなど……あたくしにも、ついぞ覚えのないことでございます」 「……や、たぶん、もっと単純なことだと思いますけど」 ただ単に、市松人形を友達と思って――ひょっとしたら、本当に友達になってしまったのかもしれないが――、拗ねているというよりは真剣に怒っているのだろう。友達に対する美希の態度が、あまりに理不尽なものであったから。 (まぁ、ガラス窓に友達投げ込まれたーなんて、普通ありえないだろうけどさ……) この家ではそんなこともあるのな、としばし複雑な気分になる。 ふーむ、と鼻から息を抜いて、正弘は腕を組んだ。 「鬼蜘蛛さんの言う通りだな。まったく完全に非はこちらにある……そうだな、美希?」 「うう……そうね。あなたの理屈でいうとそうなるわよね……」 「わたしの理屈もカカシの理屈もあるか。ちゃんと考えろ! お前のしたことはな、声を掛けて振り向いたオバさんの顔が怖かったから殴ったとか、そういうのと同じ意味不明なことなんだぞ!?」 珍しくガミガミと説教を垂れる。美希はまだなにやら言いたそうではあったが、思いも寄らぬ剣幕にしゅんと肩を落としていた。 しかし、正弘がこうまでとやかく言うのは、妖怪の側から改善を求めるアクティブな態度に呼応できるのが、嬉しくてたまらないからに違いない――まったくどうしようもない親父であるが、言うこと自体は正論である。美希にとっては、まさしく微妙〜な気分であることだろう。 「……鬼蜘蛛さん」 「はい、勇弘様」 もう完全に機嫌は直ったのか、にこりん、と綺麗な笑顔を向けられて、ぐっと勇弘は言葉を詰まらせた。別にどうというほどのこともない、いつもの態度といえばそうに違いないのだが――やはりどうにも、昼間のことが脳裏をよぎってしまう。 心臓が鼓動を忘れ去るほどの濃厚な艶麗さを思い出し、勇弘はうつむいて口元を押さえた。指先に触れた頬が熱い。やっぱりまだまだガキってことか、となんとなく小さくため息をついた。 「勇弘様……? どうかなさいましたか?」 「あ。い、いや」 我に返る。幸い、正弘は説教に夢中なようで、親二人は息子の青臭い煩悶には気づかなかったようだ。こちらはいまだ不機嫌続行中の美織が、仏頂面のまま膝によじ登ってくるのを抱き上げてやりながら、勇弘は言った。 「その、市松人形……さん。は、どこにいるのかなって」 「市松なら、養生所におりますわ」 「なにっ。養生所? それはアレかね、病院かね?」 説教が終わったのか、はたまた耳聡く聞きとめただけか、さっと正弘が身を乗り出してきた。勇弘も、はてなと小首を傾げる――妖怪の病院など、聞いたこともない。市松人形を治療してくる、と言ってはいたが、それは鬼蜘蛛が個人的に何かしたのだと思っていた。 「それは一体、どういう? 妖怪にもそんな組織があるとは知らなかった。どこにあるのですかな?」 「……そちらでございます」 正弘の問いに、思いもよらず鬼蜘蛛は片手で庭を示した。座敷から漏れる蛍光灯の明かりが、眼鏡池あたりまでをぼんやり照らしている。目を凝らしてみたが、それはまったくいつもの庭であり、当然妖怪の病院などという不可解なものは見当たらない。 |