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或いは作為 10
首を捻るのは後回しにして、とりあえず緋梨を一発殴ろうとよろよろ足を進めていると、背後からマ行の呻き声が聞こえた。勇弘の肩越しにそちらを見て、彼女は首を横に振る。 「今の見てたでしょ、おじいちゃん。いい加減納得して。彼は妖怪じゃないわ」 「むぅぅ……うむ、むうぅぅ」 「おい……コラ、待て。ちょっと待て。なんだと?」 振り向いて見ると、常円は忌々しげな表情で錫杖を担いでいた。何か文句を言ったのだとすれば、それはこちらの台詞なのだが。 実はね、と緋梨があっさり口を開く。 「うちのおじいちゃん、どうしてもあなたが普通の人間と思えないらしくて」 「いやあの。そのまま言い返していいですかそれ」 「新種の妖怪なんじゃないかーとか、新手の取り憑きなんじゃないかーとか、随分危機感を持っててね。次に仕掛けに行くときは、そこのところも確かめようって話になってたんだけど」 「……ちょっと待てコラ……」 「もっとも確実な判断方法は、妖怪だったら消滅してしまう術をあなたに向かって使うこと。前の白菱符よりも強力な、ね……わたしは人間だろうなと思ってたんだけど、最初に警戒されたときはちょっと疑っちゃったわ」 あんなもの警戒して当たり前である。涼しい顔して言うことは無茶苦茶だ。 ギリギリと奥歯を噛みしめる音や、額に浮かんでいるに違いない青筋を見ても聞いてもいないのだろう。緋梨はすべての御札を剥がし、勇弘が取り落としていた封筒を拾い上げ、真っ平らな無表情で差し出してきた。 「ともかく、これで確認終了。あなたは晴れて、人間と認められたわけよ。おめでとう?」 「……そんなでも一応女なんだろうから、聞くけどな。殴っていいか?」 「むぅ!」 「ダメ、だって」 「ああもう……こいつらは。ああもう」 まともに悪態をつく気力すらない。今更のように照りつける太陽が、疲労感をいっそうあおる。 このまま溢れ出る脱力感に任せ、五体倒地して眠ってしまいたかった――無論、何をされるかわかったものではないので、封筒をひったくって踵を返す。意味もなくふんぞり返る常円を横目で睨み、そのまま帰ろうとしたのだが。 「あなたは何者なの?」 肩越しに振り返ると、視線が緋梨のそれとかち合った。作務衣の裾を風が撫で、腕組みした彼女を絵のように仕立てる――肖像画というよりは、絵本の挿絵のようなほのぼの感が漂っているが。 「……なんだよ」 「業界人でもないのに、妖怪と関わりがある。妖怪のことを知ってる……信じてるんじゃなくて、知っている。なのに、離れようとしない。お隣さんか何かと勘違いしてるみたい。一体なにを考えてるの?」 「だから、仕方ないんだって。あの屋敷以外に、住むとこなんてないんだ」 「殺されるわよ」 物騒な単語に、思わず眉をひそめる。 彼女は至極真面目なようだった。その場は動かないまま、相変わらず起伏の少ない口調で言う。 「今までは嫌がらせのレベルですんでるかもしれないけど。相手は妖怪よ、常識は通用しない。あなたの家族は、いつ襲われてもおかしくない状況にあるのよ?」 「……あの家に越してきてもう一ヶ月以上経つけど、危ない目に遭ったことは一度もないよ。お前がそんな喧嘩腰でいくから、妖怪だって身構えるんじゃないのか? 鬼蜘蛛さんとか黒い猫叉とか、ろくろ首のやつだって別に凶悪って感じじゃ――」 「折谷戸の鬼蜘蛛は、もう何百人も人間を殺しているわ」 「――……え?」 完全に意表を突かれ、ただ聞き返すことしかできなかった。 安藤緋梨は腕を組み、ゆっくり、淡々と述べたてる。 「複数の歴史書や、藩録に残されているの。江戸時代後期、鬼蜘蛛と名乗る美しい妖が、ただの一体で百人以上の人間を殺害した、とね」 「……嘘言え」 「その後、かの妖怪は一族を率い、尋常ならざる勢いで駿河の国を荒らし回った……なぜか、群を成してからのほうが被害は少なかったらしいけど。本当の話よ」 「そんなもん……そんなこと。あるわけないだろ……!」 信じられるはずがない。 妖怪が人間を殺すなど、それこそ現実離れした話である。あんなに怖がりな連中に、そんなことができるわけがない。ましてや鬼蜘蛛が、などとは馬鹿げた話だ――人間に対して、もっとも好意的なのが彼女ではないか! 確かに、と緋梨は続ける。 「百年ほど前に群れが小規模化してからは、派手な話も残ってないわ……確認情報はときどきあるけど、事を起こした記録はない。でも、過去に多くの人を殺めた妖怪が、あなたの屋敷に棲んでいることには違いないのよ」 「……そんな記録……信用できるかよ。絶対違う。俺はこれから、そこへ帰るんだからな!」 「別にあなたの不幸を止める気はないわ。ただ質問に答えて。あなたは一体、何者なの?」 踵を返して立ち去りながら、勇弘は適当に言い置いた。 「あんたの後輩にならなきゃならない、不幸な人間だよ」 きょとんとした声が呼び止めてきたが、振り向くつもりは毛頭ない。なぜだか腹が立っていたし、なぜだかとても居たたまれなかった。 妖怪に対する認識の違い――安藤緋梨は怨敵と定め、遠峰円は存在を知らない。山神勇弘はといえば、その両方の狭間で揺れ動いている。中途な立場で半端なことしか考えられない自分への苛立ちが、こうして現れているのだろうか。だとしたら、緋梨には八つ当たりしてしまったことになる。 少し後ろめたくなって、本殿の角で振り向いてみた。 遠くなった緋梨は、こちらを見ていない。トラックへ向かう常円の背に、なにやら声を掛けているようだ。まったく得体のわからない、緋色を冠したモノクロ少女。あるいは、そのすべてが作為なのかもしれない。 忘れ去られていた蝉の合唱が、再び勇弘の歩を進めた。 |