或いは作為 9


 緋梨はその場に棒立ちしていた。面白いくらい呆気にとられている。ずっと黙っている常円はといえば、一歩さがったところから孫娘の様子を見守っていた――勇弘の話に動揺した素振りもない。随分と差のある反応だが、何か思うところでもあるのだろうか。
 ともあれ、このまま黙っていられては、いつまで経っても帰れそうにない。
「こっちからもちょっと、聞きたいんだけどな」
「……何よ」
「俺はだから、妖怪のこと――まったく迷惑してないってわけじゃないけど、そんなに深刻には考えてない。いきなり出てきておどかされたり、騒いで睡眠妨害されたり。母さんが怖がりだからちょっと大変だけど、でもその程度だ……なんで安藤がそんなに、妖怪を倒そうとするのかわからないんだよ」
 緋梨は片手で石灯籠に触れ、糸のような半眼をこちらに向けた。
 奈落のような笑顔にもキツいものがあったが、こういう無表情も悪寒を刺激する。敵意にも似た気配を感じて、勇弘はわずかに踵を退いた。
「あ……安藤?」
「ずっと昔から、戦ってきたわ」
 揺れのない、落ち着いた口調で彼女は言う。
「わたしたちが生まれるはるか前――夜を紐解く悠遠の頃。平安の世に現れた、律成宗滿送埋派から五百年。さらに四百年の空白を経て、初代常円が安藤を生み出してより今日まで……およそ二百年間」
「二百年……」
「全部足したら千年以上、人間は妖怪と戦ってきた。わたしはまだ十八年しか生きていないけど、九十八匹の妖怪をこの手で封じたわ。その歴史を前に、あなたごときが何を言うのかしら?」
 にわかには信じがたい、裏側の戦史。しかしその一端に触れている今、どうして否定できようか。まるでアニメの世界である。
 歯を食いしばるような心地だったが、それでも勇弘は言った。
「妖怪はみんな凶悪だ、とか、そういうわけじゃないんだろ!? むしろ俺は、妖怪にまともに襲われたこともないんだよ。ってまぁ、すすんで襲われたくもないけど……ともかく。あの屋敷の妖怪たちは、お前に狙われなきゃならないようなやつらじゃない」
「ヤクザの存在理由を忘れちゃったみたいね」
「……なんだって?」
「さっき教えてあげたじゃない? 必要悪を必要でなくす手段。もっとはっきり言いましょうか……悪い連中だけ選んで殺すんじゃ不十分。だから、全滅させるの。相手は人間じゃあないんだから」
 善悪の概念すらなくすために、存在そのものを葬り去る。
 勇弘はようやく理解した。最初から、緋梨はそう言い続けていたのだ。妖怪の一部が――ほんの一握りなのか、半数近いのか、それとも大部分がそうなのかは、彼にはわからなかったが――人間にとって害悪であるから、すべての妖怪を根絶やしにする。十把一絡げに、全部まとめて、一切合切を絶滅させる。
 なんと一方的な暴力なのだろう。
「何……考えてんだよ。そんな権利ないだろ……」
「あら、おかしい? 痘瘡の病原菌や、ポリオウィルスだって絶滅させられてるじゃない。人間の独断専行でね」
「ふざけんなよ。妖怪と細菌じゃ、全然わけが違うだろうが!」
「そうね。細菌のほうが数段、世のため人のために役立つわ。医学の進歩は彼らの犠牲のおかげだもの……。これ以上話し合っても、無駄みたいね?」
 緋梨が小さく、くすりと笑う。
 普段感情が表れないからだろうか、彼女の笑顔は随分と、多くを語ってくれているように思えた。たとえば今のような、明らかな侮蔑の意思など――歪んだ双眸を見ているだけで、ムカムカするほど伝わってくる。
「俺だって……妖怪が好き、とか言えるもんじゃないけど。けど、そんなことされなきゃならない連中じゃねぇだろがよ!」
「やれやれだわ……引き返せないくらい毒されてるのか、もともと平和な頭をしてるのか。どちらにしろ、うちでのバイトはとてもできそうにないわね」
「こっちから願い下げだ」
「そ。まぁ、これだけでも持って帰ったらいいわ――」
 ぽい、と緋梨が小さな封筒を投げた。小銭ばかりを詰め込んでいたようだが、本当のバイト代のつもりなのだろうか?
 目測を誤ったのかわざとなのか、このまま放っておいたらかなり手前に落ちてきてしまうであろうことを、勇弘はそれが彼女の指を離れた瞬間から察知していた。くるくると、不安定に回る封筒を目で追い、わずかないとまに逡巡する。
 二択を強要されている気がした。
 少し手を伸ばして受け取るか――無視をしてこのまま背を向けるか。前者を選ぶのはなんとなく嫌だった。出所不明の敗北感がある。かといって、受け取らなければお金を地面に落としてしまうことになる。そちらもなかなかに後ろめたい。気分的に嫌な度合いは、五分五分といったところか。
 となると背中を押したのは、
(生活費の足しになる!)
 涙ぐましい発想だけだった。
 随分と急な放物線を描き、ゆっくり落ちてくる封筒を、一、二歩前へ出てキャッチする。意地汚い話だが、すぐに中を確認しようとした。が、できなかった。
 彼が足を進めた瞬間――ほとんど同時に、緋梨も動いていたのだ。石灯籠に片手を叩きつけ、もう片手の指を複雑に組み合わせる。
「オン!!」
 と叫ばれたときには、大体思い出していた。
 元はといえば最初は、そう、この怪しげな灯籠サークルの中央に立つか立たないかで揉めていたのである。話を逸らされすぎて完全に失念していたが、まさに今いるこの位置こそは。
「そっ――」
 れだけのためにあんだけ喋ったのか!?
 などと、怒鳴る余裕もありはしなかった――


 隙間に、



 どっ



 と何かが流れ込んでくる。
 一切の動きを止めた。止められた。呼吸もきっと止まっていた。肺の中が、空気ではない何かで強制的に満たされている――隅々まで。そして肺だけではない。
 体中に、外から何かが流れ込んできていた。
 両手の間。指の間。小さく開いた口の中。
 皮膚と肉の間。骨の継ぎ目。内臓と内臓の狭間にまで。
 得体の知れないなにものかが、勇弘の体内に入ってくる。随分な勢いのようだが、なぜだか衝撃にはならない。心地よくもなく、ことさらに不快でもない。熱くもなく、冷たくもない。
 物体として認識できない――のに、どうして体内とわかるのだろう?
 体が浮き上がるような不安定感。地面と足の裏の間にも何かが入り込んでいる。見える世界が変わったわけではなかった。安藤緋梨は不敵に笑んで、じっとこちらを見つめている。見える範囲にみっつの石灯籠。貼られた御札が自分を睨んでいる。
 何にも変化は見られない。だが、何かを――何かをされている!
「う……らぅ、ぐ、げほッ!?」
 嘔吐感にも似たつっかえがあり、うまく声を出すことができない。たまらず咳き込むと、突然その感覚は消え去った。無理矢理に体を満たそうとしていた何かが、前触れなく消滅したのがわかる。
 崩れ落ちる膝を堪えることもできず、勇弘は片手で口元を押さえた。
「はぁっ……はぁっ、うぐ、はぁ……な、なん、だ。今の……」
「ちょっとびっくりしたでしょう」
 まるで事もなげに言って、緋梨はピッと石灯籠のひとつから御札を剥がした。荒い息を繰り返す彼に、ひらひらとそれを振りながら言う。
「これは、赤菱の符」
「……あか……びし……?」
「安藤家に伝わる秘術のひとつよ。三種の色符における第二――初めて会ったとき、あなたは白菱の符を受けたでしょう? 平然としていたわよね」
「いや地味に痛かったけどあれ」
「それはまぁ物理的に……もう動けるの?」
 膝頭に手を当てて立ち上がり、勇弘は唾を飲み込んでみた。
 なんともない――喉を塞いでいた奇妙な感覚は消え、両足も違和感なく地面を踏みしめている。なぜ自分がくずおれていたのか、はっきり捉えることも困難な状態だった。ただどうしてか、力が入れづらい。神経自体が緩慢になったかのように、はっきりとした動きをとることができない。
 眉根を寄せた緋梨が、小さく肩をすくめて続けた。
「まったく。おじいちゃんと仕合ったときも思ったけど……随分タフな人ね。それとも鈍感なだけかしら」
「うるせぇな……何をしやがったんだよ!?」
「呪符は封妖具で最も使い勝手のいい、オーソドックスなものよ。妖怪に対して強力にはたらく、封印のための武器。あなたが今体験したことが妖怪の身に起こったとしたら、それは彼らに滅びをもたらす……と、いうことよ」
「なにぃ……?」
 再び、先程の不思議な体感を思い起こそうとしたが、うまくいかない。まったく未曾有の、この世のものとはとても思えない閉塞感と被包容感。妖怪に対するためのものだ、と言われてみればなぜか納得もできた――が。
 なぜそれを、自分に対して使ったのだ? それもこうまで強引に。