彼女の真意 10


 しばし衝撃から立ち直れず、勇弘はよろよろと後ずさった。折しもゴロゴロと、どこかの空で雷鳴が響いている。爽やかな夏色の少女から一転、狡猾な夕闇色の策士といった具合に変貌した遠峰円は、けらけらと実に愉しげに嗤った。
「まさかそんな、恩を仇で返すようなことはしないよねぇ!? 持ちつ持たれつは日本のココロだよ。そこんとこわきまえてもらわないと!」
「と、遠峰……それでいいのか!? 今お前、清純派って看板ドブに捨てたぞ!? すごく大事なものだったぞ、きっと!」
「知らないよーだ! 勇弘くんさえ入部ってくれれば、大会にも出れる。試合にも勝てる。部室だってきっと手に入る! あの女を見返すことができるのよ! さぁ、斜向かいに越してきたことが運の尽きだと思って、観念しなさいッ!!」


 どんがらぴっしゃーん!


 腕を組んで仁王立つ、円の背景に稲光が走る。
 異様なまでの迫力である。もはやテンションがおかしくなっているのか、二人ともまったく動じもしなかったのだが、
「……あ?」
 ぽつ、と鼻先に滴りを感じて、勇弘は空を見上げた。あんなにも晴れていた空を、もくもくとわきだした黒雲が覆いつつある――そして一瞬後、天気の境目から猛烈な勢いで雨粒が落ちてきた。降りはじめの慎みなど微塵もない、盛夏特有の夕立が神社を襲う。
「うおっ……」
「わひゃ、夕立だ夕立だ! 勇弘くん、入部の件はどうあれ、とりあえず雨宿りしよ――」
「っ待て!」
 本殿に逃げ込もうとする円の腕を、ハッと気づいて掴む。何がどうでも、ここに留まるわけにはいかない。
「や、そのさ。こんなのすぐやむよ。走って帰ろう、遠峰」
「はぇ!? やむわけないじゃん、ずぶ濡れになっちゃうよ!」
「や、たまにはそういうのもいいかなーと。ほら行こう、あの暗雲に向かって競争だ!」
「ど、どうしたの一体。勇弘くん壊れてきてない!? ちょっと、あ、あう〜〜〜服が透けちゃうぅ〜〜〜!?」
 強引に彼女を引っ張り、石段に差し掛かった刹那。


 ――忘れ物だよ


「え――おわっ!?」
「うひゃっ!?」
 奇妙な声が鼓膜を打った気がして、振り返った拍子に後ろからきた円とぶつかる。抱き留める格好になってしまい、彼女はパッと離れて胸元を押さえた。
「も……もう。勇弘くんてば、大胆……」
「涙が出るほど誤解だ。それより……あ」
 いくらも離れていない地面に、円の麦藁帽が落ちていた。
 手を伸ばして拾い上げながら、周囲に視線を走らせる。あの意味不明な目玉妖怪はいないようだが、一体全体ここは何なのだろう? まったく腑に落ちないことが多すぎる。引っ越したばかりのあの屋敷のようだ。
 なぜか、ついこの間耳にした、鬼蜘蛛の言葉が甦った。
『妖怪は、どこにでもおりますのですよ。ここにも、そこにも、あそこにも』
 勘弁してくれよ、と胸中で呻き、勇弘は帽子についた土を適当に払った。
「ほら、遠峰」
「あっ? うわ、忘れてた。ありがとう……けど、ここに落としてたんだっけ、これ……?」
「そんなこと気にしてないで、帰ろう。早く行かないと濡れちまうぞ!」
「早く行ったって濡れるってば! あん、もう、待ってよ勇弘く〜ん!?」
 小走りに石段を下りながら、彼はもう一度空を見上げた。あんなに青かった空はもう、完全に黒く塗り潰されてしまっている。円の言う通り、走って帰ってもまったく意味はなさそうだ。
 それでも今は、できるだけ早く、この場所から離れたかった。


 翌朝。
「ふえっくしょいッ!?」
 大きなくしゃみをかまし、勇弘はずりずりと鼻をすすり上げた。
 ちゅんちゅんと小鳥が涼やかにさえずる、早朝の山神家である。まだ蝉も日差しも本調子ではなく、一日で最も過ごしやすい時間帯といえるだろう。まぁ、昨日の強行軍がたたって風邪をぶり返してしまった彼にとっては、涼夏だろうが猛暑だろうが大して差違のないことではあるが。
「う〜〜〜……ゾクゾクする……」
「あははは、やっぱり風邪引いちゃったんだね。だらしないぞ〜? んふふふ」
 はいこれ、などとにこやかに言いつつ、制服姿の遠峰円が紙袋を差し出してくる。受け取って中を見てみると、水羊羹とバファリンが入っていた――よろよろと門扉にもたれかかりながらも、どうにか相手に突き返す。
「いるか……! ったく。誰の所為でぶり返したと思って……」
「きっぱり勇弘くんの所為じゃん。あたし雨宿りしよーって言ったのに」
「だからあれはお前のっ……あぃててててて……」
 怒鳴ると頭に響くのである。
 視線を泳がせる彼を見、円はやたらと愉快げに笑った。
「高校チャンピオンも、こうなっちゃうと形無しだね〜。スケベなこと考えるからだよ?」
「違うってのに……。それに、チャンピオンうんぬんはもうよしてくれ」
「えー? どしてどして? 早速部活に誘いに来たのに」
「はぁ!?」
 素っ頓狂な声をあげ、脳髄に突き抜けてまたしてもよろめいた。勇弘くん面白いねー、などと脳天気にぬかす彼女に、こめかみを押さえつつ静かに唸る。
「なんでそーなるんだよ……誰が行くんだ、誰が」
「え、もちろん勇弘くんだよ。そういう話だったでしょ?」
「違うわっ……!? 俺は部に入るつもりはないって言っただろ!」
「えぇーっ!? まだそんなこと言ってるの!?」
 今度は円が大きな声を上げた。音域が高いぶん、自分の声より数段キツい。
 ふらふらと門から離れる勇弘を、彼女は紙袋を胸に抱いて追撃してきた。屋敷に逃げ込もうとする彼を捕まえ、耳元できゃんきゃんと文句を垂れる。
「もぉー、往生際が悪いよ!? そんな勇弘くんって嫌いだな! いい加減諦めて、この入部届にサインしなさい!」
「何持ってきてんだお前……!?」
「いっぱいいっぱい差し入れ持ってきてたのは何のためか、ちゃんとわかってるでしょ!? 拒否権なんてないの。恩を仇で返すつもり!?」
「あんだけ拒否ったのに勝手に持って来続けて、恩も仇もあるかってんだ!」
 こめかみを押さえてでも、頭痛を堪えてでも、怒鳴り返さずにはいられない。
 むぅ〜〜〜、と円は呻きの尾を引いた。景気よく降り注ぐ朝の光に、これほど映えるふくれっ面も珍しい――彼女ほど素地が整っていると、大抵の表情は絵になってしまうのだろうか。この顔ほどに性格も綺麗であれば、色々と苦労もないのだが。
「……わかったよ」
「お?」
 掴んでいた勇弘の腕を放し、円はすっと後ろに退いた。わかった、という響きからはほど遠い、邪悪な笑みを浮かべてうふふふと微嗤う。
「そんなに言うなら、発想の逆転だよ……勇弘くんがうちに入部してくれるまで、あたしは差し入れ持ってくるのをやめないッ!」
「脳みそ平気か?」
「ま、またヒドいこと言ったぁーっ!? んもぉ許さないぞ、ぶってやるっ、ぶってやるっ」
 ぺしぺしと紙袋をぶつけてくる彼女を、門の外まで押していく。がしゃりとカギをかけ、疲れた表情を隠しもせず、わめき声に背を向けた。
 がうー、と動物園の猛獣よろしく格子戸にへばりつき、人目もはばからず円が遠吠えする。
「絶っ対、入らせてやるんだからぁ!? あたしは負けない! クビ洗っとくといーよー!?」
「うるせぇ……」
 ぴしゃっ、と玄関の戸を閉めると、さすがに声も遠ざかった。長く深いため息をつき、次いで思い出したように何度か咳き込む。自分はこんなにウィルスに弱かっただろうか――確かに少々なまっているのかもしれない。昨日一日歩き回って、太ももに張りを感じているくらいだ。
 だからといって、彼女の思惑にはまるつもりはさらさらないが。
「しっかし、まさかあいつが……意外すぎだっての。ったく……」
「ユウ」
 階段を登りかけて、振り向く。ランニングに縞パン、首にタオルをかけた正弘が立っていた。出勤前に一風呂浴びていたのだろう、薄い頭が上気している。
 その浮かない表情から全てを読み取って、しかし勇弘はおはようとだけ返した。ああ、と短く頷き、正弘はどこか落ち着かない様子で言う。
「起きて大丈夫か? 遠峰さんが来てたんだな。今日の差し入れはなんだろか」
「追い返しには成功したよ。珍しく……つーか、父さんもそろそろあそこに頼るのやめなよ」
「や、ははは。確かに情けないが、現状は如何ともしがたいし。ありがたいことには違いないからな」
 それにしたってねぇ――と呻きつつ、二階へ向かう。しかし再び呼び止められて、彼は小首を傾げつつ見下ろした。意味もなくタオルを折り畳みつつ、正弘が呟くように続ける。
「さっき、まぁ、聞こえたんだが。……お前、本当に――」
「俺、バイト見つけたから」
 素っ気ない口調で遮る。とっさに口を衝いて出ただけだが、話を逸らすにはいい要素だったようだ。そうか、とどこか焦ったように、かつ安堵したように、父親は頷く。
 何も思い出すつもりはない。
 そんな必要もないとわかっていたので、父にはただ、風邪が治ったら面接に行こうと思っていることだけを伝えた。
「あと俺、朝飯いらないから。母さんは?」
「今日は家にいるそうだ。安心して寝なさい」
「はいよ。いってらっしゃい」
 二階に引っ込み、ベランダへ続く戸を大きく開く。いまだに段ボールが貼り付けられているため、光をまるで通してくれないのだ。これから気温があがってくることだし、風通しはよくしておくべきだろう。
 薄っぺらい布団に横になる――体を止めると脳だけが動きだし、古い記憶に溺れたがった。うつぶせになって枕に顔を埋め、無理矢理に別のことを考えようとする。さて、気を紛らすには何がよいだろう――家――妖怪――土森市――神社――
「遠峰――お前の服、全然透けてなかったぞ……」
 呟き、彼は目を閉じた。とても眠れそうにはなかったけれども。


彼女の真意 了

前項

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