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彼女の真意 6
呆れかえりつつも話の大筋を理解して、勇弘は食事を済ませてしまおうと、改めて素麺に取りかかった。それ以上詳しいことをまともに聞くのは、なんとなく怖かったからでもある。しかし、その意図を敏感に察したのか、円はひょいっとガラス鉢を彼の前から取り上げてしまった。 「ちょっと勇弘くん、真面目に聞いてよ!? そのうち通う学校のことでしょ!?」 「ああ、いや、まぁそうなんだけど。今は聞かないほうが、なんか、自分のためっぽいかなーとゆーか……」 「なにわけわかんないこと言ってるの!? こんなマズいソーメン食べてる場合じゃないでしょ! あたしはね――」 「不味い?」 瞬間。ぽむ、と円の肩に皺だらけの片手が触れる。 枯れ木のように細い腕が、唐突な呟きによる刹那的なプレッシャーを、静かに静かに引き延ばした――ビビクンッ、と円の全身が震え、そろりそろりと顔を横向ける。 柔和な笑みを満面にたたえ、老婆がそこに立っていた。無論のこと、つい先程まで、いいやたった今までいなかった。店の奥に引っ込んだまま、一度も姿を見せていないはずだ。凄まじい高速で回り込んだ? いや、そんな気配も、過ぎ起こる風もなかった。瞬間移動した? 納得はできるが、人間には不可能な業だ。 唖然としていると、老婆――フクロ婆さんは、勇弘には一瞥もくれず、ただその皺に埋もれるように光る細い細い目を、真っ直ぐに円に向けて言った。 「円ちゃん。今ぁ……不味い、と言うたかね?」 「うっ……う、ううん、ううんっ!? 言ってない、そんなこと言ってないよ! 言うはずないじゃん、あは、あはははははは」 先程までの口調と一転、怯え引きつった恐怖の声音で答える彼女。ガラス鉢を持ったままぶるぶると、ほとんど震えと見分けがつかない感じに、激しく首を横に振っている。 しゃっきりと伸びた腰をわざわざ屈めて覗き込みながら、フクロ婆さんは小首を傾げた。 「嘘はいかん。嘘はいかんのじゃよ、円ちゃん……嘘つきさんはな、山の神様に舌を抜かれ、野の神様にそっぽを向かれて、池にはまって死んでしまうのさ。それとも、このババに舌を抜かれたいかのう……?」 「ち、ちが……あのっ、そ、それはマズいねって! 勇弘くんちに電話がなくて、なんかなんかすごく大変で、それはマズいよねーって! そう言ってたのっ!」 「おい……」 焦っているのは見ればわかるが、よその事情で大嘘こかないでほしいものである。というか、電話がなくて大変なのは紛れもない事実であるので、なおのこと居心地が悪い。 「なぁーんじゃ、なるほど。そうかい、そうかい」 円の肩から手を放し、老婆はにっこり頷いた。硬い笑顔で必死に頷き返す彼女に、 「そりゃぁー、ババの勘違いじゃったのう。円ちゃんはええ子じゃのう」 「う、うん、うん」 「電話がないのは大変じゃから、素麺のおかわりしてくれるかのう」 「うん、も、もちろん!」 話に繋がりが皆無である。必死な円に注文を取り付け、老婆はやはりふらりふらりと、危なっかしく揺れながら店の奥へと消えていった。 ほぉぉぉ、と大きく安堵のため息をつく彼女に、勇弘はなんとなくではなく小声で言った。 「なぁ……今の……?」 「えっ? あ、だ、だから、フクロおばーちゃん。息子さんへの愛は盲目的で、マとズとイが繋がった言葉で料理をけなされたりするとああなるの。過去、面と向かってそれを言った自称グルメが、何人か消息不明だって噂も」 「……い、いやいやいや。でも今のは、アレだろ、言葉のあやだろ? 別に本気で言ったわけじゃ――」 「もちろんよ!? 本気で言うだなんてそんな恐ろしい……けど、そんなことは関係ないの。この店の中でのタブーなのよ。うっかりしてたわ……たぶん、ほんとに勇弘くんちの電話に関して言ったんだとしても、フクロばーちゃんはあたしの隣に現れたでしょうね。音もなく」 いまだ手にしていたガラス鉢をこちらに返しつつ、真顔で言い切ってくれる。 勇弘は振り向き、老婆が通り過ぎていったことを示して揺れるのれんを眺めて、やはりため息をついた。深くは考えないことにしたいが、それで納得してしまっては色々とおしまいな気がする。日常生活が非現実的すぎる分、せめて人間には人間らしくいてほしかった――そんな切な思いが呟きに出る。 「冗談だろ……?」 「今の現象が冗談に見えた……? でも、あんまり気にしないほうがいいよ。この辺りって、住んでる人少ないけど、ちょっと変わった人ばっかりだから」 それは奇人変人率が異様に高いということの証明ではないのか。 ぐったりと頭を抱え、勇弘は呻いた。なるほど、自分は確かに今朝、美希に対して思ったものだ――妖怪に対してはああまで恐怖するのに、なにゆえ円を不審に思わないのか、と。しかし今ならばわかる。具体的にわかる。『人間である』という生物的事実こそが、常識という宝を守る最後の砦なのである。覆してはならない。覆されてはならない。たとえそれが、どんなにか信じがたいことであろうとも。 宗教的なまでの覚悟と悲愴さをもって、彼はぶつぶつと呟いた。 「忘れよう……忘れてしまおう。そうすれば平和だ。問題なく暮らせる――いやそれは嘘だな問題はあるな色々。だけど、だけど少なくとも、希望の光は見失わないですむ……!」 「どうしたの勇弘くん……? それはそうと、何の話だったっけ」 かなり豪快にビビっていた割には、あっさりと話を戻す円。やはりよくあることなのだろうか。いいや、考えたくもない。 忘却願望を便乗させて、勇弘は話の糸をたぐり寄せた。 「ええと、ほら、アレだ。五十メートル走がどうとか」 「ああ、うん……そうだったね。部室の所有権を賭けて、安藤緋梨とあたしとで、五十メートル走の勝負をしたの」 「で、どうだったんだ?」 円は両目をとろんとさせ、勝ってたらこんなに未練ないもの、と小さな声で呟いた。そりゃそうか、と一度納得して、しかし改めて首を捻る。 「でも……遠峰、スポーツとか得意なんじゃないのか? 走るのとか特に速そうだけどな」 「まぁ、全然自信なかったら、そもそも受けないしね……一応、七秒前半は出すよ」 「うお」 そこまで速いとは思っていなかった。男子にしてもそこそこ速い勇弘と同程度といったところか。となると、彼女が新設を希望したのは陸上部か何かだろうか? 元々ないとは考えにくいが。 というか気になるのは、そこまでのタイムを持つ円が破れたということだ。それもあの、お世辞にも運動が得意そうには見えない、安藤緋梨に。 「油断がなかった、とは言わないよ……だってさすがに、あの女見て足速そうーとか、思う人そうそういないでしょ?」 「……まぁなぁ。速かったのか」 「うん……僅差だったけど、負けちゃった。部室の話もパァよ。おかげでうちは、今でも宿無し草……民俗変化研究部は、手に入れた部室をものの二日で異空間に変えちゃうし。あいつの所為ですべてが、そう、すべてが狂ってしまったのよぅぅぅうえぇぇぇ」 語尾を器用に泣き声に変える円に、何を言うでもなく思い返す。そういえば山神家においても、緋梨は二度ほどなかなか見事な跳躍を見せていたようにも思う。ますます読めない少女であるが、ただの変人ではないということか。 ずるずると残りの素麺を平らげ、勇弘はどんより沈み込む円に言った。 「んで、遠峰は何部なんだ?」 「……うん?」 「部活。自分で新しく作ったって、そりゃ一体どんな……部、なん、だ……?」 台詞を徐々に尻すぼみに弱め、勇弘は訝しく眉をひそめた。円が、たった今までめそめそと顔を覆っていたその指の間から、小学生よろしく両目を覗かせているのだ。しかもなんだか、笑っている――半月型に歪められた瞳が、にんまりと彼を見返している。 それは今朝から何度か目撃した、彼女の不可解な笑みに共通するイメージだった。 「おい……遠峰?」 「……わからない?」 「え?」 「あたしが何部か、ほんとにわからない?」 わかるわけがない。何を言っているんだこいつは。 一方的に試されているような、不可解で不愉快な気分に襲われ、勇弘は胸中で首をひねった。本当に今日の遠峰円は、あらゆる意味でどこかおかしい――もともと行動に理屈が窺えなかったが、所属する部を当てさせてどうしようというのか。 苛立ち紛れに、思いつくまま適当に並べ立ててみる。 「テニス部か?」 「ううん」 「水泳部」 「違うよ。んふふふ、勇弘くんのえっち♪」 「なんでだよ……。じゃ、バスケ部」 「違う違う」 「視点を変えて茶道部?」 「ちが〜〜〜う」 何だというのだ、一体。 ぶんぶんと首を横に振られ、勇弘は思わず渋い顔をした。当たらないことが口惜しいわけではない。というか実際、彼女が何部だろうがどうでもいいのだ。こちらを困らせて、踊らせて、それを楽しむようなやり口が気に入らないのである。 両手の指を組んで顎を乗せ、円はふふっと絡むように笑った。 「そんな顔しないでよぅ。怒りっぽいなぁ勇弘くんてば」 「……別に、怒っちゃいないけどさ。俺、そんなに深い意味で、遠峰に部活聞いたんじゃないんだけど。部室取り合ったって話するから、ちょっと気になっただけで――」 「それは知らないよ。勇弘くんに深い意味がなくても、こっちには大ありなんだから」 「……へ?」 「よしっ。じゃあ、こうしよ?」 ぽんと手を打って、彼女は言う。 「あたしが何部かを当てられたら、勇弘くんの質問に答えてあげる」 「……なんだそりゃ」 「どうして差し入れを持ってきてたのか、教えてあげるってことだよ。ただし、そうだね……今二時だから、三時間以内。五時までに当てられなかったら、あたしの言うこと何でも聞いて? 一個だけ。どうよ、どうよ」 実に楽しげにそう提案する、円の瞳をじっと見つめ返す。 彼女が、その言動の雰囲気や無秩序めいた行動に表される通り、気の向くままの考え無しにそう言っている――のではないことは、既に十分理解できた。でなければ、こんなタイミングで差し入れうんぬんを口にしたりはしないだろう。確たる目的と、周到な打算をもって一言一行を為しているのだ。 現に今、彼女の目は笑っていない。 「……遠峰」 「当てずっぽするのはダメだよ? ちゃんと考えて、理屈で当ててね」 「いや……理屈でとか言われても。わかるわけないだろ、そんなの――」 「わかるはず。ううん、わかるよ。わかってもらわないと、困る」 突然真剣味を帯びた口調に、ややたじろいで言葉を切る。 見つめる大きな黒瞳の中に、不可解なまでの熱意と期待を見つけた気がして、勇弘は思わず目を逸らした。彼女にそんなつもりはないのだろうが、責められているような気分になる。一体、何を求めているのか。 薄闇をまとったように捉え所がなく、それでいて心を掻く彼女の真意。どうにかそれを見透かそうと、ぎこちなく視線を戻してみる――しかし、円はこちらを見てはおらず、老婆が運んできた素麺のおかわりを、非常に微妙な笑顔で受け取っていた。 |