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彼女の真意 7
その頃、山神家では。 「ママぁ〜。おにーちゃんは〜?」 台所でまな板に向かう美希の腰に後ろから抱きつき、美織が甘えた声を出していた。毎度のごとく妖鳥以津真天を肩に乗せ、足元にはすっかり仲良くなった黒猫を従えている。今日も今日とて遊んでいたらしいが、情操教育上、これはいよいよどうなのであろうか。 そういった懸念を表すかのように、鰯を捌いていた美希はうろんげな視線を肩越しに人面鳥に向けた。美織の腕だの頭だのを跳ね回り、『静かな湖畔』を輪唱している鳥たちは気にした様子もないが――それにしても、つくづく妖怪に好かれる彼女であることだ。 「……。お兄ちゃんはね、デート」 「でぇと?」 「そう、デート」 にまりん、と美希は口元を緩めた。 そう、それについては、むしろ娘よりも自分のほうが興味があってたまらないのである。母たる彼女の知る限り、勇弘が女の子と二人きりで出掛けるのは、これが初めてのはずだった。いまだ決定的な一言はないようだが、あれほど積極的なアプローチを受けるのも未曾有の経験だろう。青春である。 一体どこで、どういう具合に何をしているのだろうか? 最近の子供は進みが速いというし、あまり行き過ぎたことをしていないかどうかも心配だ。あまり恋愛に聡いとは思えない勇弘だが、あの遠峰円という少女はなかなか露骨にアタックしてきている。万が一、間違いが起こってしまったら――いやいや、それもまた甘酸っぱい一ページか。 「ママ、でぇとってなーに?」 随分楽しく想像を膨らます彼女に、美織が小首を傾げて言った。 「うふふ。デートっていうのはねぇ、とっても楽しいことよ? ワクワクで、ドキドキで、ラブラブしちゃうものなの」 「えぇーっ! ミオも行く〜、ミオもー!」 どんどんと両足で跳ねるのが、最近の美織の駄々コネ方法らしいが。美希は首を横に振り、ド真面目な顔で講釈をはじめた。 「ダメよ、ミオちゃん。デートはね、男と女が一対一で行うのが普通なの。二人っきりで語らうことでお互いの愛を打ち明けたり、確かめたり、育んだりするのよ。邪魔はいけないの。悪いことなの、とっても」 「ふぅ〜ん……?」 「今頃お兄ちゃんは、きっとものすごく緊張してるのよ。何を喋ったらいいのかに困ったり、自分の話題の乏しさに辟易したり、ちょっとした弾みに目が合っちゃったりしてぎこちなく微笑んでみたり……ああっ。良かったわねぇユウちゃん! 正弘さんがカイショなしーのデリカシーなしーのだった所為で、せっかくの高校生活がめちゃくちゃになっちゃったかと思ったけど。あんな可愛い子に誘われるだなんて……ほんと、男前に生んだ甲斐があったわ。うんうん……」 鰯を握りしめてトリップする。なにやら感無量のようである。 理解するにはまだ早すぎる思想やら単語やらが頻発し、美織はぽかーんと母を見上げていたが、やがてこくんと首を傾げて言った。 「じゃあ、ママはパパとデートしたの?」 「……む」 ぴく、と眉根を寄せ、美希は動きを止めた。男女一組、というあたりから連想したのだろう、またぴょんぴょんと無邪気に跳ねながら続ける。 「パパとデートして、ワクワクしたの? ドキドキ? ラブラブ?」 「……うん、まぁ。ドキドキしたわね……どうしてデートコースが墓場の見下ろせる丘だったり、事故の多い交差点際の遊園地だったり、眺めのいい飛び降り名所だったりしたのかは、あの時訊かなかったけれど。ママも若かったわ……もしもあの時気が付いてたら、ミオちゃんは生まれてなかったかもねー」 「……?」 後半には首を傾げる美織であった。しかしやはり、正弘は昔から変わらない性格らしい。 料理中だからお庭で遊んでらっしゃい、と娘を追いやって、美希は再び調理に取りかかった。今朝揚がったものだという新鮮な鰯の腹を裂き、素手で開いて中を掃除する。今日の夕飯は、鰯つみれのすまし汁と素麺である。円が持ってきたリヤカーいっぱいの差し入れの中に、『主婦まっしぐら』印の素麺パックが入っていたのだ。 「というか、アレはもらっちゃっていいのかしらさすがに。正弘さんに相談しないと……あら?」 ふと足元を見下ろす。 美織と一緒に遊んでいた黒猫が、お行儀良く座って見上げていた。賢そうな目をした大きな猫である。なにやら一心さを感じさせる態度で、ぱたぱたと尻尾を振っている――その尻尾は、根本のあたりでなぜか二股に分かれていた。 ハッと思い出す。この黒猫は、普通の猫ではないのだった。 「な……なっ、なに、かしら……!?」 強ばった声音で呟く。妖怪猫叉は、一声みゃんと鳴いて、またぱたりぱたりと尾を振った。 美希はごくりと唾を飲み込み、忙しなく視線を巡らせた。正弘は夕方まで帰ってこない。美織は今自分が追い出してしまった。勇弘は前述の通り、真夏の甘酸っぱい日差しの中で色々とお楽しみ中なことだろう。久々に完全タイマン状態である。 みゃ〜〜〜ぅ、と猫が長く鳴く。ひぇ〜〜〜ぃ、と美希はすくみあがった。これでも幾分、妖怪妖魅の類には慣れたつもりでいたのだが――やはり、一人になるとまるでダメダメである。あまりの恐怖に膝が笑いはじめた。もう一声鳴かれでもしたら、なりふり構わず美織に助けを求めるべきかもしれない。 「ひ……ひっ。お、お願いあっちいって……ひぃぃッ!?」 すーりすーりと足元にすり寄られ、思わず上擦った悲鳴をあげる。すねの外側に頭をなする、極めて猫っぽい仕草。しかし美希にはそれが、人知を越えた奇々怪々な怨念をじわじわと塗り込めているような、すこぶる縁起の悪い邪な所作に感じられて仕方なかった。 それにしても、どうしてこんな突然。自分が一体何をしたというのか? ただ鰯を捌いていただけだというのに、この猫はどういうつもりなのだろう。夕飯の支度をしていたことが、そんなに気にくわなかったのか? それとも美織が邪魔だから追い出したことだろうか。正弘との忌まわしき逢瀬の過去を、実は詳しく聞かれたくなかったこと、もしやこの猫は理解しているのか? ぐるぐると悩み巡る美希に何を思ったか、猫叉はひょいと跳び上がった。素晴らしいジャンプ力とバランス感覚でシンクの縁に着地し、改めてごろごろと喉を鳴らす。 「う、うひょろろろえぇぇぇい、いっ……い? ……」 奇抜すぎる悲鳴をあげて身を反らす美希だったが、そこでようやくはたと気づいた。いまだゆらゆらと尻尾を振る黒猫の視線は、ただ一点にのみ――まな板の上にごろごろと転がる、新鮮な鰯に向けられている。黒い瞳を真ん丸に見開き、舌なめずりでもしそうな勢いである。 美希は沈黙し、じっと猫のその様子を見つめた。別に気張った理解が必要なわけではなく、それは見たままそのまんま、魚が欲しいが故に行儀良くお座りする、頭のいい猫の所作にしか思えなかったのだが。尻尾が二股になっていようとも、やはり猫は猫ということか。 「こ……これ? が、ほしい、の……?」 おそるおそる鰯の尻尾をつまみ、逃げ腰になりながらも差し出してみる。 猫叉はぴくんと両耳を立て、みゃん、と短く鳴いて魚をくわえた。床に飛び降り、機嫌良さげにすたすたと歩いてゆく。 なんとも簡単に事なきを得て、美希は大きく息をついた。鰯を一尾とられてしまったが、それだけですむなら万々歳である。むしろいくらでもあげたい。ろくろ首などには効果が望めそうにないのが残念である。 と。そのまま台所を出て行くかに思われた猫叉が足を止め、鰯をくわえたまま振り向いた。びくっ、とまた肩を震わせる美希に、 『イワシもいいけど、この時期、アジが安くて美味しいわよ』 そう女の声で呟き、とことこと廊下を去っていった。 ――猫叉は喋るものである、などとはこの時まで美希は知らなかったのであり。どうして猫が魚屋の売値や、海産物の旬に通じているのかなどの具体的な疑念にも少々後押しされるような形で。 「……まっ……まぁぁさひろさぁぁぁんッ!?」 いもしない夫の名を叫び、美希はどこやらへ逃げ出した。 |