彼女の真意 9


 空は変わらず、良い天気である。
 もくもくと盛り上がった入道雲が、太陽を掴もうと諸手を伸ばしているようであるが、それもわずかに届いてはいない。やかましく途切れない蝉の合唱。風にざわめく山の木々。そういった諸々に囲まれているのに、この神社はとても、とても静かだった。あるいは、これこそが和の心なのかもしれない――
「そうか……」
 なぜ彼女が山神家に差し入れを続けていたのか。
 どうして自分にしつこく構ってきたのか。
 そもそもなにゆえ、こんな奇妙な関係が構築されてしまったのか――ようやく全てを紐解けて、勇弘は小さく呟いた。
「そういうことかよ……なるほどな」
「ゆ……ゆ、勇弘くん、そろそろ行こっかっ? ほらーもうあんなに日が高くなっちゃったよ! 実はすっかり言い忘れてたけど、この神社には日が暮れると、ヤクジンさんってゆー妖怪が出るって噂が――」
「なんで隠してた?」
 立ち上がって喋る円を、あくまで静かに遮る。
 なおも誤魔化そうとしているらしい大きな瞳を、座ったままで見上げてやると――やがて観念したのか、彼女はため息をついて腰を下ろした。麦藁帽を目深に被り、背後に両手をついてやれやれと呻く。
「あ〜〜〜ぁ……つまんないの。新学期までは秘密にしとくつもりだったのに」
「なんだそりゃ……。いつから知ってたんだよ?」
「そりゃあ今年からだよ」
 ちら、と麦藁帽の下から横目をくれて、彼女はそう白状した。思い出し笑いをするように、唇の端を少し曲げて続ける。
「新生ボクシング部の部長兼マネージャーとしては、主立った大会の優勝者くらいチェックしといて当然じゃない? 選抜のウェルター級を、誰かさんがオールKOで制した、なんてニュースがあったら……そりゃあ、顔写真くらい見ようかって思うよ。ね、チャンピオンさん?」
「……いきなり嫌味だな、おい」
「うん? 嫌味? どしてどして、そんなつもりないよ」
 苦笑して、勇弘は手すりに体重を預けた。遙か遠い蒼穹に目を向ける。もう一年近く前になる、心に焼き付いて離れないあの瞬間が、久々に彼の網膜を輝かせた。
 ボクシング。
 彼の青春そのもの――に、なるはずだった競技。
 その響きだけでも塩の味を感じ、彼はやれやれと首を横に振った。まさか今更持ち出されるとは、まったく思ってもいなかった。彼自身が再び相見える気にならない限りは、袖擦り合うこともない世界だと思い捨てていたのに。
「勇弘くん……?」
 麦藁帽を取り、円が覗き込んでくる。露骨に目を逸らして視線から逃げ、勇弘は先程の彼女よりも数段しらじらしく言った。
「さてね。なんのことだか。チャンピオン? 人違いだろ」
「…………。ちょっとぉ……なによ」
「ん?」
「なによそれぇ……やめてよね、今度はそっちがとぼけるとか。てゆーか、不自然さ通り過ぎて怒りすら沸いてくるよっ!?」
 再び立ち上がり、怒鳴ってくる。本当に忙しい女だなーと思う彼に指を突きつけ、円はきゃんきゃんと子犬のように吠えた。
「いっぱい考えたんだから! もう、いーっぱい考えたんだからね!? あーしてこーしてこーするとあーなって、そしたら勇弘くんがうふふふふふ、とか! 毎晩毎晩、あたし真剣だったんだからッ!」
「おいおいおい……なんかいかがわしいぞお前」
「どこがよ!? あたしはただ、勇弘くんにっ……」
 胸元で握りしめられた拳が、力みを表してぶるぶると震える。いや、ひょっとして全身が震えているのかもしれない。地面に落ちた麦藁帽を見もせずに、彼女は蝉たちを圧倒するほどの声量で叫んだ。
「勇弘くんに、うちのボクシング部に入ってもらいたいだけなんだからぁッ!!」
 ばさばさばさ、とどこかから鳥が飛び立つ。
 まぁそういうことなんだろうな、とさすがに予測はついていたが。遠峰円と、ボクシング。本人の口から聞かなければ、まったく共通性を見出せない事柄である。部長兼マネージャーと言っていたが、彼女がグラブをはめてサンドバッグ等に立ち向かっている姿など、想像の仕様も――
(……いや……まぁ、絵になってはいるけど)
 ぽりぽりと頬をかいた後、勇弘は顔を上げ、照れたように微笑んで言った。
「嫌だ」
「ちょ、ま、待って!? 今の笑顔は、笑顔の意味は!? あれーおかしいなー、あたし今絶対オッケーもらえると思っちゃったよ!? 直感したよ!?」
「俺はもうボクシングやる気はないよ。高校で部活に入る気もない。バイトしなくちゃならないからな」
 うろたえる円に、きっぱりと告げる。でもでもでもー、とまた異様な滑舌で、彼女は両手を振り回した。
「どうして!? 一体なんでなの!? 山神勇弘だよ? 勇弘くんは、山神勇弘なんだよー!?」
「……いや、まぁ。うん。落ち着け」
「落ち着いてるよ! 落ち着いて、落ち着いてなお理解できないよ! 勇弘くん、月刊KENTOに『十年に一人の逸材』とか書かれてたんだよ!? うちのボクシング部できたばっかりだし、男子部員は一年生二人だけだし、いいトコないけどさ! でも――」
「そうじゃなくて。遠峰の部活がどうとかじゃなくて、俺がやらないんだよ。……それだけ」
 あくまでも平静な彼の口調から何を読み取ったものか、円はしばらく黙り込んだ。下唇を噛んで、じっと見つめてくる。
 別に気が咎めたわけでもなかったが、勇弘は視線を足元に落とした。
 と、
「……っう……!?」
 口を衝いて出そうになった呻きを、なんとか喉の奥へ押し戻す。
 こちらを見つめる円の背後――階段の下の地面に、ぎょろりと大きな目玉がふたつ出現していた。拳大ほどもあるだろうか。真っ黒くつやのない、明らかに人間のそれとは違う瞳を、真っ直ぐに彼に向けている。
 まったく完全に唐突に、そして問答無用に妖怪である。やはりこの神社、なにかおかしい。
「そう……それじゃ、仕方ないよね」
 はふ、とため息をつき、円が呟く。妖怪がぴくりと反応し、その視線が彼女に向いた。楕円形の目がぐにゃりと歪み、するすると地面の上を移動する――それは、果たして。なんというか。
 そよ風に揺れる円のスカートの中を、嬉しげに覗き込んでいるようにしか見えなかった。
「……おい、コラ」
 低い声音で呻くと、ぎくりとしたように地面の眼球が震える。そしてそのまま、ふつっ、とまさにまぶたを閉じるように消え去ってしまった。
「…………。何だってんだ……?」
「えっ? なに?」
「あ、い、いや。何でもない。そう、仕方ないんだよ、うん」
 意味も理由もわからない、謎な妖怪の存在を悟らせまいと、勇弘はつとめて明るい口調で言った。そもそも妖怪を信じていない、と彼女は公言していたことだし、普通にしていれば良かったかもしれないが――いや。妖怪などいないと思っているからこそ、妙な現象からは意図して遠ざけなければ。
 それにしても、今のは一体何だったのだ?
「俺にまずやる気がないんだから、それはもうほんとにしょうがないというか、諦めてもらう方向しかないよな。うん、解決。さぁもう帰ろうぜ遠峰。ここは危険だ〜いやなんとなくでもマジで」
「勇弘くん」
 立ち上がり、円並の滑舌を駆使して歩み去ろうとした彼の腕を、本家マシンガントーク娘ががっしりと掴んだ。振り向くと、彼女の微笑みが視界を占める。それほどまでにいつの間にか、距離を詰めて立っていた。
 さわ、と木々を揺らして風が吹き抜ける。
 円の長い髪がなびき、高校生とは思えないほど大人びた魅力を匂いたたせた。意識せず、息を止めてしまう――色々と忘れがちではあるが、やはり彼女が美人なことは間違いないな、と勇弘は思った。
「あのね、勇弘くん……」
「遠峰……」
「あたしが今まで何のために、勇弘くんちに差し入れ持って行ってたんだと思う?」
 このやろう。
 ぴっきりと顔を引きつらせる勇弘に、円はにんまりと――今朝から何度か目撃していた、あのいやらしい笑みを再び浮かべた。
「なんでかな? うふ、なんでだと思う? 引越初日から二十四回、差し入れを繰り返したのをまさか忘れてないよね? ん? 山神勇弘くん」
「か……数まで覚えて。お前っ……お隣さんだから当然のことだ、とか何とかさんざん言ってたじゃねーか!?」
「あははは、そりゃそうだよ〜? お隣さんなんだから、当然――下心がないわけないじゃない。ねっ?」
 天使のようにあどけない微笑が、周到な罠を仕掛けた悪魔の嘲笑に思えた。あれだけ天然っぽい所作を見せておいて――実はやっぱり、打算ずくめの落とし穴まみれだったというのか!