美希と鳴屋 1


 春はあけぼのといわれるものの、日本の夏の明け方というのも、また格別によいものである。空気は澄みきり、緑青々、見上げた空もどこか広々と感じられてしまうものだ。早起きは三文の得という言葉も、まさしく夏にこそ当てはまるのではないだろうか。
 だからというわけでもないのだが、山神家の朝は大抵早い。
 勇弘、正弘ともに寝起きは悪くない上、新居に越してきてからというもの、夜更かしする理由も要素もない。美織に関しても同様で、寝惚け眼でひょこひょこ起きだしてきては、縁側でラジオ体操を行うのがここ最近の日課となっている――順番バラバラ、間違いだらけではあるが、楽しそうなのでよいのだろう。
 そんな一家の中で、毎日最も早起きなのは、
「ぁふあぁぁ〜〜〜……ねむ……」
 当然、美希である。
 午前六時。きっちり目覚めて身支度を整えた美希は、一キロほど離れた商店街の朝市へ買い物に出掛ける。一日分の野菜、卵等を完璧な計算の元に購入し、愛想笑いを撒き散らしながら帰宅して、すぐに朝食の準備に取りかかる。懐具合の逼迫事情が半端ではない山神家は、この美希の芸術的なやりくりによって、なんとか倒れずに保っているのだ。
 一粒も逃がさぬよう注意して米を研ぎ、数少ない電化製品のひとつ、炊飯ジャーのスイッチを入れる。米が炊ける間に勇弘たちを起こし、次いでニラを刻んで卵に混ぜる。手早くニラタマを完成させるその手際、まさに主婦の鑑といって差し支えない彼女なのであった。
 のだが。
「……?」
 ふと、背後に異音を聞いた気がして、美希は振り返った。
 広々とした台所――それだけ物がないのだ、ということを痛感させられるが、今はとりあえずどうでもいい。その分隅々まで見回して、かつ何も異常がないことをすぐに了解できる。だが、美希は眉毛をハの字に寄せたまま、不安げに呻いてタマネギを刻みはじめた。
 トントントントン
 パタパタパタパタ
「……っ!?」
 顔を引きつらせて振り返る。が、やはり背後には何もおらず――次の瞬間。
 ……パタパタバタバタバタッ!
「ひっ!?」
 正面の食器棚から、美希に向かって『音が突進』し、彼女は驚いて包丁をシンクに取り落とした。ガシャーン、と派手な音がする。すると、
 ガシャガシャガシャガシャ
 新たに沸いた大きな音が、美希の周囲をぐるぐると回りはじめた。無論、目に映るものは何もない。ただただ混乱し、彼女は震える足で台所からの脱出を試みた。しかし。
 ドタドタドタドタ
「いやあぁぁぁぁぁぁーッ!?」
 廊下側からも音が向かってきて、とうとう彼女はその場にへたり込み、耳を塞いで泣きだしてしまった。
「もう嫌ぁーっ! なんなの、一体これはなんなのぉ〜!?」
「どうしたぁー美希ぃ〜!?」
 悲鳴を聞いた正弘がその場に駆けつけるまで、出所不明のその音たちは、思う存分台所中を暴れ回ったのだった。


「やなり?」
 ずず、と味噌汁をすすりあげ、勇弘は眉根を寄せて呟いた。ニラタマ、納豆、ほかほかゴハンなど、純和風のメニューが並ぶ円形テーブルに鉢を戻してから、首を傾げる。
「なにそれ? 妖怪?」
「そうだ。鳴る屋と書いて、逆にやなりと読む。結構有名な妖怪だぞ……お、ユウ、今日の味噌汁はどうだ? 母さんがまたテンパってしまったから、父さんが作ったんだが」
「ああ……うん、前よりうまくできてるんじゃないかな。美味しい……のは、いいんだけど」
 勇弘は、なんともいえない微妙な表情で、妖怪巻きシーツに目をやった――テーブルからやや離れた畳に、真っ白なシーツで全身をぐるぐる巻きにした美希がうずくまっているのだ。時々小刻みに震えたり、うううーと奇怪な声を発していたりする。毎度のことだが、かなり異様な光景である。
 そんな妻をのほほんと眺めつつ、正弘は味噌汁に口をつけた。しばしむつかしい顔をした後、も少し濃くするか、と呟いてから話を続ける。
「鳴屋というのは、もともと小さな地震やら何やらで、家がカタカタ揺れることから生まれたとされているな。つまり、音の妖怪だ。別に、それ以外何をするわけでもないらしいんだが……母さんはまぁ、また盛大に驚かされてしまったようだな。はっはっはっ」
「だだだだってっ! そんな、あんな、き、危険じゃない! 何もしないだなんて、わからないじゃないのよっ!」
 にょきん、とシーツから頭を出して、涙まじりに美希が怒鳴る。まるで春巻に首が生えたような、大変情けない風情である。いつまで経っても、彼女の怖がりは変わらないらしい。美希の美希たる所以ともいえるが、正弘はやれやれと思ったようだった。
「お前、まさか忘れたわけじゃないだろう? 妖怪たちとは、膝を突き合わせて話し合ったじゃないか……お互いのことをよく知る目的で、しばらく一緒に暮らす、と。そう決まっただろ? お前も理解してたじゃないか」
「そ、そうだけど……そうだけど、だったらなんでまだ怖がらせてくるのよ!?」
「それはわからん。そういうことを知るために、一緒に暮らすんだしな。そうだ、わからなければ訊けばいいんじゃないか? 鳴屋に直接。教えてくれるかもだぞ」
「できるもんですかッ!」
 子犬が吠えるように言い捨て、またシーツの中に引っ込んでしまう。ニラタマを箸でぶっ刺した美織が、くりくりした両目をきょとんとさせて母親を見た。妖怪イコールお友達、と最初からその理屈しか考えていない彼女にとって、美希の態度ははなはだ謎に思えるのだろう。