美希と鳴屋 2


 三日前。勇弘たち山神一家と、この屋敷に棲む妖怪たちは、前代未聞の異文化――異種族――異世界――なんでもいいが、ともかく何かしらの壁を乗り越えて対談し、ある取り決めを行った。しばらくの間、この人間社会と妖怪世界が重なり合ってしまった家で、お試しに一緒に暮らしてみる、というのがその内容である。
 お試し、というのは他でもない。人間側にも妖怪側にも、共生するのに難色を示すものがいるからである。というか、妖怪はほぼ全員がそうのようだ。紆余曲折を経てこういう形に収まったのはいいものの、どうすればいいのかわからずにお互い尻込みしているのが、とりあえずの現状だといえる。
 勇弘は納豆ごはんをかき込み、美希に目をやってしばし黙考した。
(母さんが一番、妖怪のことを知るべきだ……とは、今でも思うんだけど。やっぱ簡単にはいかないよなァ。第一、どうやって知ればいいんだか)
 妖怪に直接声を掛け、コミュニケーションを図るというのは、正弘ならばあるいは可能かもしれないが――筋金入りの恐がりである美希にとっては、酷な話である。妖怪を直視することすら、いまだ困難に違いない。
「さて、ごちそうさん、っと」
 食後の水道水をぐいっとあおり、正弘が立ち上がる。今日も日雇いに出掛ける彼は、薄手の上着を着込みながら言った。
「ユウ、もし母さんがこのままだったら、後片づけをよろしく頼むぞ。今日は帰りに障子紙を買ってくるから、夜ここに貼るのを手伝ってくれ」
 朝食を摂っている座敷と、続きの座敷との敷居を示す。元々ぼろぼろに破れ果てていたここの障子は、今は綺麗に剥がされて、その骨組みだけを晒しているのだ。ある程度生活できるようになるまで、我慢できる部分は我慢しようと決めた故のことである。
 ここに限らず、二階の割れた窓ガラスなどは、雨風が吹き込まないように外から段ボールを貼り付けただけという、実にみすぼらしい有様になっていたりもする。山神家がいかに『ギリギリ』であるかわかる、哀しき具体例であった。
「あと、ごちゃごちゃすぎて目を逸らし続けてきた納戸にも、そろそろ手を出さにゃならんな。前の住人のものも混ざってるだろうから、使えるものと使えないものをしっかり見極めてやらないと……じゃ、いってきまーす」
「あんまり活用したくない物品ばかりな気もするけどね。いってらっしゃい」
「パパ、いってらっしゃ〜い!」
 箸を握ったまま、美織が手を振る。彼女の口の周りが納豆でべたべたなのに気づき、勇弘はポケットティッシュでごしごしと拭ってやった。にひー、と笑う妹の頭をぐりぐりしつつ、片手でティッシュを丸め――てい、と美希に投げつける。
「うっ? な、なんか当たった!」
「俺だよ。怖がるなとは言わないけどさ、朝飯くらいさっさと食おうよ。冷めるとマズいし、残るともったいないし」
「そ……そうね」
 ずりずりと這ってきた美希は、ようやっと両手を出して朝食を食べはじめた――が、胸から下はいまだしつこく、ライナスのごときシーツに収まっている。普段、寝転がって物を食べようものなら『お行儀が悪い』と叱る彼女であるのに、今となってはこの体たらくだ。
(別にいいけどね……母さんだし)
 勇弘は、手早く自分と正弘の食器を重ねた。食べたらもってこいよ、と美織に言い置いて、台所へとそれらを運ぶ。蛇口から水を出してスポンジを取り、彼は洗い物にとりかかった。
 持ってきた食器をとりあえず水に浸け、調理器具の類を先に洗う。なかなか手慣れたもので、次々ごしごしと洗っていったが――ふと、その手が止まった。何か妙な音を聞いた気がして、シンクの横手に目をやる。
 菜箸が仁王立ちしていた。
 何の支えもなく、問答無用で、二本揃って真っ直ぐに。……一瞬、何がどうなのかわからず、ただただきょとんとしてしまう。しかし、どの角度からどういう風に見ようとも、菜箸が堂々と直立している、と表現する以外にないのであった。
「……なに?」
 答えを期待したわけではもちろんない。単に、どう反応すればいいのか、迷ったが故の呟きである。それに応えるわけでもないだろうが、突然、菜箸はその場で踊り出した。
 タカタンタン タカタカタッタカタッタ タカタンタンタカタッタカタカタッ
「うわ。すっげ」
 物理法則を完全に無視した菜箸が、まな板の上で軽快なタップを刻んでいるのだ。思わず真剣に感心してしまうほど、それは見事かつ意味不明な光景であった。人間の足のように、とはいかないようだが、そもそも動きが有り得ない。ぴったり合ったコンビネーションで、心地よいリズムを生み出している。
 しばらく眺めていた勇弘だったが、一分ほども経ったところで呟いた。
「なぁ。お前が鳴屋か?」
 すると、箸はぴたりと動きを止めた。ややあって、直立したままずーりずーりと左右に動く。なんとなく、違うような雰囲気である。
「そっか。じゃ、仲間に鳴屋って妖怪はいるか?」
 今度は、縦に小刻みに跳ねた。わかりやすい意思表示で助かる。下手に喋らない分、ろくろ首などより接しやすいかもしれない。
「鳴屋ってのは、悪いヤツか? その、性格とか」
 また、左右にずーりずーり。勇弘は何度か頷き、小さく肩をすくめて言った。
「じゃあ、鳴屋に言っといてくれ。また出てくるなら、調理中だけは避けてくれってな」
 戸惑うようにその場で円を描く、器用な菜箸に苦笑して、勇弘は洗い物を再開した。