美希と鳴屋 3


 その日の昼は素麺だったが、鳴屋は出てこなかったらしい。おっかなびっくり台所に立った美希だったが、ようやくほっとしたようだ――さっきは菜箸が踊ってたよ、と親切心から教えてやると、また巻きシーツに変化してしまったが。面白いくらい怖がりな母である。
 正弘が腕時計を持って出てしまうので、勇弘たちには時間がわからない。千円程度の小さな時計を買おうか、という話も出たのだが、別段なくても不自由はないので、そこから進展しないのだ。日の傾きや状況から、大体の見当さえつけば、それで事足りてしまう生活をしているのである。
 そして勇弘の感覚によると、今は大体二時過ぎといったところだろう。
「ん……なんだこりゃ?」
 何気なく座敷を横切ろうとした折り、テーブルの下に何か落ちているのを見つけ、彼は身を屈めてそれを拾った。
 一冊の本である。カバーは飾り気のない灰色で、四、五センチほども厚みがある。表題には、ただ一語『妖怪』とだけ記されており、著者名は利根弓桜造とあった。おそらく、正弘の本だろう。
 しばらくそれを眺めてから、勇弘は続きの間に目をやった。山神家の女性陣が、そちらですやすやお昼寝中なのだ――巻きシーツ状態のまま眠ってしまったらしい美希の上に、親子ガメのごとく美織が乗っかって、幸せそうによだれを垂らしている。降ろそうという気には到底なれず、勇弘は邪魔しないよう離れて座り込み、その本の奥付を開いてみた。
「利根弓……おうぞう、って読むのか。変な名前……」
 どちらかというと、タイトルよりも作者名に興味を惹かれたのだが、それを確認しただけで閉じてしまうのもナンな話である。彼は最初のページから、ほんの少しだけ目を通してみた。
 難解な単語。厄介な表現。長い一文に不親切な比喩。
 装丁の雰囲気から予想していた通り、その本の内容は勇弘にとって、意味不明の一言だった。実際、それは高校生が読解するにはやや難しすぎる、民族学の解説書だったのだが――『はじめに』のページで撃沈され、気怠い気分でぺらぺらとページを繰っていた彼は、お、と呟いて指を止めた。
「ろくろ首だ……」
 ページの上半分に、見知った妖怪のイラストが載っていたのである。和服を着て髪を結い、屏風の向こうからにゅうと首を伸ばす若い女の絵が、いわゆる浮世絵タッチで描かれている。イラストの下には妖怪の説明文と、出現例などが記されていた。
「……『夜になると首を伸ばす、女の妖怪。純粋な妖怪ではなく、普通の人間がなにものかに取り憑かれてなるとする説もある。医者によって治癒したという話も残っていることから、病の一種ではないかとの見解もある』 ……? そうなのか?」
 眉をひそめて首を傾げる――勇弘が知っている、この屋敷のろくろ首は、どこからどうみても男だった。かつ、服装やら何やらからしても、元は普通の人間であるなどとは到底思えたものではない。どういうことだろう?
 目次に戻ってみると、その本の中盤から後半にかけては、多様な妖怪を図解して説明を加えてあるようだった。こういうことは楽しいものだし、なにより彼にとって他人事ではない。勇弘は知っている妖怪の名を探し、ページをめくってイラストを見、解説文を読み進めていった。
 曰わく、
「垢嘗……『風呂場の垢を嘗める妖怪で、誰もいない夜に出現する。垢を嘗めるだけで何もしない。幼児の姿であることが多いという』 微妙に当てはまらないな……本当かよ」
 曰わく、
「二口女。『飢えて死んだ子供が化けた妖怪。主に女性に取り憑き、後頭部に巨大な口として張りつく。髪の毛を触手にして、膨大な量の飯を喰らうという』 あ〜〜〜。なるほどね、それで……」
 曰わく、
「一反木綿は……『夜、道を歩いていると飛んできて、顔に巻き付き窒息死させる妖怪。何をやっても切れず裂けずだが、一度でもお歯黒で染めたことのある歯ならば噛み切れるとされている』 ……怖ぇーじゃん。なんで母さんに負けてんだよ」
 などなど、いろいろ。
 勇弘の疑問はどうあれ、さすがに学術書らしく、相当詳しいところまで書き込まれているようである。ポピュラーな妖怪から地方独特の妖怪まで、認識度の割り振りなどもされている。なるほど、こういう知識を好きこのんで大量に仕入れていけば、いずれは正弘のような人間が出来上がってくるのかもしれない。
 小難しい注釈等は読み飛ばし、彼は一通り妖怪たちの紹介項を眺めていった――と。ふと眉根を寄せて手を止める。知らない妖怪――亀にも似た奇妙な造作に、固まった毛を背に生やした薄気味悪いイラストの、その説明文に目が引っ掛かったのである。
「……縁の下の、妖怪……?」
 脳裏に、ピンク色の洋服を着た、一人の少女が浮かび上がった。いつも、愛想のカケラもないポーカーフェイスで――縁の下に、寝転んでいる。この屋敷の妖怪たちの、長であるらしいあの女の子。
 あの子は載っていないのだろうか?
 勇弘はページをめくった。さすがに、今見つけたケッカイとかいう、不気味な妖怪がそうだとは思わない。イラストを確認し、説明を斜め読みし、彼は少女を捜していった。
 が、見つからない。
 有名無名、百種類ほどもの妖怪が解説されていたが、どれもが長に当てはまらない。少女の絵だと思えば座敷童だったり、どこかの城のなんとか姫であったり。家屋においては縁の下に現る、という毛羽毛現なる妖怪も見つけたが、それは名前の通り毛むくじゃらで、到底あの端正な少女に重なる部分などありはしなかった。
 それでも勇弘は、あの少女を匂わせる妖怪を根気強く探していったが――最後に目目連を解説し、紹介のページは終わっていた。
「……ないか」
 小さくため息をつく。考えてみれば、あの正弘ですら長に対しては言葉を濁したのだ。かなり強力な妖怪であることには間違いない、と断言するものの、種類などはわからないらしい。この本に載っているはずはなかった。
 しかし、気になる。何か知る手だてはないものだろうか。
 本を閉じてテーブルに置き、立ち上がったところで『ガシャ、ガシャ』と音がした。誰かが玄関の戸を叩いたのだ。
『こーんにーちは〜っ! ゆーぅひーろくぅ〜んっ!』
「……ああ。もう」
 耳慣れた声に頭を抱え、勇弘は廊下を歩いていった。