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美希と鳴屋 6
壁に手をつき、よろめくように廊下を戻る。逃げ道はもう、逆側にしか残されていない――だが、そうだ。台所には勝手口があった。草むらを通らねばならないが、ともかく外へ出て表へ逃げよう。 ドンガドンガとついてくる音塊をなんとか振り切ろうと、美希は必死で台所へ転がり込んだ。 その瞬間、音がやんだ。 「……え……?」 狭い土間に片足を突っ込んだまま、不審に思って振り返る。その時、視界の端に何かが引っ掛かって、美希は台所の奧を見た。 冷蔵庫のドアが開いたままになっている。目を引っ掛けたのは、点きっぱなしの庫内灯だ――いや、それはとりあえずどうでもいい。 開きっぱなしの冷蔵庫の前に、調理時に使う三本足の椅子がある。そしてその横に、子供が倒れていた。こちらに背を向けて、うつぶせに、壁と床の境に顔を押しつけている。 「ミオちゃん……? ミオちゃん!? 美織っ!」 美希は娘に駆け寄った。抱き起こしてみると、たいそう晴れやかな笑顔を浮かべて、しかし完全に気を失っている。その小さなおでこには、たこ焼きサイズのコブがぷっくりと膨れ上がっていた――はっきり言って不気味である。一体何があったのだろう? ともかくも、美希はてきぱきと行動した。立ち上がり様に肘で冷蔵庫を閉め、ハンカチを濡らして片手で絞りつつ、団扇で美織に風を送る。今の今まで、必死に屋敷を逃げ惑っていた哀れかつ滑稽な中年女とは、とても同一人物だと思えなかった。 「美織……ミオちゃん! 聞こえるっ?」 「……んむぅ〜」 呻いたことでほっと安堵し、美希は肩から力を抜いた。乱れた髪を直してやりながら、ようやく状況を検分する――美織は確か、自分と一緒に寝ていたはずだ。ここに我が家で唯一の椅子があることからみても、のどが渇いて何かを飲もうとしたのだろう。まったくおっちょこちょいな娘だ。誰に似たものか……そういえば、 「ユウちゃんはどこにいるのかしら……?」 完全に存在を失念していたマサイ族を探して振り向いた美希は、台所の入り口に、奇妙なものを発見した――ぎょろりとした大きな目玉に、尖った口。緑色の小さな体を柱に隠すようにして、そっと様子を窺っている。 思わずギョッとした美希だったが、普段と少し違う空気を感じた。その妖怪――そう、明らかに妖怪だ。だが、こちらに向けるおずおずとした視線や、逃げる準備にも見える気弱な態度に、どこか物言いたげな雰囲気を察したのだ。 それは、音に追われて美織を見つけた、この現状も大きく関与しているのには違いないが。それでも美希は、おそらく初めて誰にも促されることなく、自ら妖怪に話しかけた。 「あなたが……鳴屋?」 『……う』 妖怪がこくこくと頷く。多分に今更ながら、美希は言葉が通じることに驚いた。こんな、おとぎ話の世界に住むような、摩訶不思議な存在に――自分の意志が伝わっている。恐ろしさの何が変わるわけでもないが、不思議な感慨を覚えた。 「美織が倒れているのを、報せようとしてくれたの?」 『う……う』 今度は頷かなかったが、さりとて否定するようでもなかった。きょろきょろと忙しなく目玉を動かし、一度もこちらを直視しようとしない。美希は、何をどう言葉にするべきなのか迷った。ありがとう、と言うべきなのか。しかし美織を助けてくれたにしては、どうしてこんなにおどおどとしているのだろう……? 「ええと……その。あなたは……あっ?」 言い淀んでいるうちに、妖怪鳴屋はさっと壁の向こうへ姿を消してしまった。反射的に中腰になるが、追い掛けるところまでは気力がいかない――いなくなってようやく、変に考えずに普通にお礼を言っておくべきだったかもしれない、と美希は思った。驚かせて、怖がらせて、走らせて。それが娘のためであるなど、一体どうして予想できただろう。そうだ、お礼を言うどころか、謝らなければならないほどではないか。 ひんやりした床に腰を下ろして、美希はため息をついた。自嘲気味だが、笑みを浮かべる。なるほど、ああいう妖怪もいるなら、ひょっとして正弘たちの言う通り、 「この家も、そんなに悪くないのかも……ねぇ、ミオちゃん?」 気を失ったまま眠ってしまったらしい美織を振り返る。瞬間、笑顔が凍りついた。 美希と娘の、ちょうど中間。床の上に、一組の菜箸が問答無用で直立している。その状況を知覚するのにすら、随分と時間を要してしまった。あまりにも具体的な有り得なさに、とっさに反応することができない。 そんな彼女に何を思ったか、菜箸はいきなり、踊り出した―― タカタタンタンタカタン タカタタカッタ タンタカタカタ タンタッタンッ 「きいぃぃぃやあぁぁぁぁぁぁ〜〜〜ッ!?」 「むい〜?」 許容範囲を大きく突き抜けたらしく、最大音量で絶叫する美希。眠たそうに呻いた美織が、顔をしかめて寝返りを打った。 勇弘が、半ばよろめくようにして山神宅に帰ってきたのは、もう紫色の夜空が夕焼けの紅を追いやりはじめた頃合いだった。昼過ぎから四、五時間連れ回されただけで、こうも色々ぐったりするとは――まさしく、遠峰円恐るべし、である。 「じゃーねぇ〜! ばいばぁーいっ」 自宅の前から叫ぶ彼女に、まるで一反木綿のように力無く片手を揺らして、勇弘はカラカラと門を閉じた。もはやこの疲労感が気疲れからくるのか、歩き回った肉体的疲労からくるのかすら判然としない。大きく息をつき、彼はコキコキと首を鳴らした。 とはいえ、今日は収穫も多かった。 「もう十九日だったんだな……ほんと、日付の感覚が薄れてるよ。まったく」 世の学校が明日から夏休みであると、勇弘はつい先程気づかされたのだ。色々な意味で結構ショックだったが、そのことも含めて、今日は円に世話されっぱなしだった。 引っ越してきてから、早二週間。しかし実際の話、勇弘は自分の家の周辺すら、自信を持って歩ける状態になかったのである。買い物に訪れる鷺之巣商店街と、その手前にあるコンビニエンスストア――行こうと思って行ったことのある場所といえば、その二カ所くらいしかない。故に彼は、家とそれらの間にある道以外は、ほとんど通ったことすらなかった。 |