夏風邪 1


「我々人間は、妖怪とは違う」
 むっとした暑さに言葉を溶かすように、正弘は重々しく、かつ当然のような口ぶりで言った。それが指し示すものは人ではなく、この世に依りつく生命でもない。よって、それは山神勇弘にとっては意味を持たない、どころかただ息苦しいだけの言葉に過ぎるべきではなかった。
 しかし意味はある――確かに意味はある。彼は何も間違っておらず、故に何の文句もない。彼らがこの場所に在るという時点で、それは疑うべくもないことなのだ。というかただ単に、勇弘には今、いちいち文句を垂れる元気もなかった。
「人間と妖怪は、まったくの別物だ。これは当然だが、しからば何が違うのだ、と問われたとしようじゃないか。うむ」
「父さん……」
「わたしは以前ならよどみなく答えただろうな。妖怪は死なない。病気もしない。会社も仕事も学校もない。ゴハンも食べないし、お風呂にも入らない。そこが人間と違うのだ、と」
「どっかの歌かよ。いや、てゆーか――」
「しかしだな。この屋敷に住んで、妖怪たちをこの目で見、その存在を間近に感じてからは……今言ったどれにも、自信をもって頷けなくなってしまったのだよ。妖怪は死なない、本当か? 飯を食わない、本当にか? 妖怪と人間の境界線が、実に曖昧模糊としてしまった。それが――」
「あのな、父さん」
 ようやく言葉を差し込んで遮り、勇弘は寝転んだままため息をついた。
 ここは屋敷の二階。二間ある和室のうち、階段脇にある風通しの良い座敷である。いつもは一階に敷いている布団をこちらに持ってきて、彼は静かに身を横たえていたのだ。額の汗を拭い、けほけほと咳き込んで唸るように言う。
「うるさいんだけど……寝かしてくんね?」
「むぅ。なんだ勇弘。お前が一人で寂しいかなと思って、わざわざ父さん独自の妖怪論を語り聞かせてやっているというのに」
「素でいらないよ。なんで風邪引いてるときに、そんな小難しいんだか気難しいんだか、よくわかんない弁論聞かなきゃなんないのさ……」
 傍らに置いた洗面器で自らタオルを絞り、目の上に乗せてため息をつく。
 何が悪かったのかと思い返せば、それは間違いなく昨夜の入浴であった。
 美織を連れて風呂に入り、湯上がりに髪を拭いてやっていたところ、突然彼女が黒猫を追いかけて逃走。奇怪なほど巧みな逃げ足で兄を翻弄し、三十分に渡って屋敷の内外を逃げ回ったのだ――今にして思えば、あのやたら物を知っていそうな妖猫が、何かしら手を貸していたのかもしれない。
 ともかく、ろくに自分の髪も乾かせないまますったもんだしてしまった勇弘は、その夜のうちに喉に違和感。明けた今朝、発熱とともにダウンしてしまったのであった。
「しかし、暇だろう。父さんの本をいくつか置いておくから、眠れない時にでも気を紛らすといい」
「ああ。それはありが……いや。持って降りてくれ」
「な、なにぃ!? なぜだ!?」
 枕元にデンデンと積まれた『妖怪』『目に見える心の顕現・物心変化』『BAKEMONO−押し入れを隔てて−』などのハードカバー本を見やり、ぐったりと呻く。タイトルだけで風邪が悪化しそうな雰囲気である。
 額に乗せたタオルをずらし、カルト的な紋様の渦巻く天井を見やる。視界がうすぼんやりしている――発熱と涙の所為だろう。眠気はないが、眠らなければ。
「母さんは……?」
「さっきパートに出掛けて行ったぞ。昼は父さんが素麺を作っておいた。無理する必要はないが、冷蔵庫に入ってるから食えるときに少しでも食っておけ」
「うん。……で、美織は?」
「うむ? 庭で遊んでるぞ。ほっとけばいいだろう」
「うぅ……なんか不安」
 致し方ないとはいえ、こういうパターンで最も厄介と思われる事柄が放置安定とは。事態を憂慮しつつ鼻をすすり上げる彼に、どっこいしょーと正弘は腰をあげた。
「父さん、ちょっと本格的に職探し行ってくるからな。帰りは遅くなるが、ついでに何か薬を探してきてやろう」
「ああ。……って、探して?」
「うむ。河原に薬草が生えていたりするやも」
「しねーよ」
 わからんぞー、などと愉快げにのたまい、彼は階段を下りていった。脳天気さも、あそこまでいくと立派なひとつの芸である。
 またひとつ咳き込んで、勇弘はタオルケットを引き寄せた。風邪を引いたのは、実に五年ぶりだ――体力が落ちているということだろう。快復したら、ジョギング程度をはじめてみてもいいかもしれない。自転車でもあれば、新聞配達のバイトなりなんなりできるのだが。いずれ正弘に相談してみるとしよう。
 完全に目を閉じる気分ではなく、中途半端なまま色々考える。カラカラと玄関の戸が開き、閉まる音がした。部屋の隅に置かれた蚊取り線香が、朝から奮迅の活躍をみせている。遠い空は青く、畳は黄色く、熱を帯びた自分の顔はきっと赤いことだろう。信号機のようだが、決して愉快ではない。しかも残念なことに、信号に正常な肌色はないのだ。
「だからどうしたってんだよ……ダメだな。寝るか」
 熱に浮かされた思考は結局まとまらず、物事をバラバラにしか考えられないようだ。
 小さく苦笑して、まぶたを引き下ろす。開け放たれたベランダから時折吹き抜ける風のおかげで、真夏日ではあるが寝苦しいことはない。濡れタオルで目元まで覆い、勇弘は深く息をついた。たっぷり眠って、早く治さなければ。
 日がかげり、また風が吹き抜ける――
 なにやら生ぬるい、決して心地よくはない風が。
「……? う、おわっ!?」
 うっすらと目を開け、途端に跳ね起きつつ跳び退る。
 ベランダを完全に塞ぐような具合で、勇弘の身長ほどもありそうな、バカでっかい顔がふよふよと浮かんでいた。男か女かもわからない、さりとて中性的というわけではない、禍々しさすら感じる骨張った輪郭。ぼさぼさの髪を振り乱し、にやにやといやらしげな笑みを貼り付けて、じぃっとこちらを見つめている。
 こんな直球の登場は地味に久しぶりで、勇弘は跳ね上がった動悸を静めるために、いささかの努力と時間を必要とした。なぜ、よりにもよってこんなタイミングで――風邪をひいたからといって、いきなり妖怪が恐ろしく感じられるわけもないが。今のはちょっとびっくりしたというか、まさか出てくるとは思わなかった。
「な……なんか、用……?」
 口に出してから、いやいやと思い直す。この状況で用件を問うのは、もはやナンセンスの域だろう。妖怪さんなんかようかい、とシャレでも口走ったほうが良いくらいである。もちろんそんな気力はないが。
 にったらにったらと笑い続けている顔――確か、大首とかいう妖怪だったか――を、しっしっと片手で追い払おうとする。しかし、相手はなおのこと笑みを深め、一向に立ち去ろうとしないばかりか、なにやらぶつぶつと呟きはじめた。
『……築地の奇異チクしまい持つ那須町と日の機内の致死ナチ背ぢ……』
「や……あの。俺、今ちょっと寝たいん、だけど。わかる? 風邪とか」
『竪猪間茎は使徒コネも巫女非組織区……』
「おい。ちょっと。わからんし。聞けよ」
『世羅に何て達年は菊間乗り幸三んべぶッ』
 べしゃっ、と勇弘が投げつけた濡れタオルが片目を直撃し、妖怪大首はぼてんぼてんと床を跳ね回った。振動はさほど伝わってこない――見た目的に妥当な質量がこんな暴れ方をしたならば、こんなボロ屋の床板などとっくに抜けてしまっているはずだ。
 妖怪の体重とは、外見に比例しないのだろうか。
「ってまぁ、浮いてる時点で愚問だよな、そんなの……」
 呆れて見ていると、やがて大首はぽーんと跳ね上がり、ゆっくりと天井に吸い込まれていった。一体何をしに出てきたのか、それすらはなはだ疑問ではあるが――妖怪とはそういうものだ、という認識だけはできている。気にせず眠ることにして、勇弘は布団に上体を投げ出した。