夏風邪 2


 その途端、ごつッ、と予想外の衝撃が後頭部に走る。
「ぃでっ。……あれ? なんで――」
 そこにあるべき枕がなく、直接布団に頭を叩きつけてしまったようだ。ふらつきながらも見回して、
「――うあ……」
 思わず呻き、半眼になる。
 いつの間にか、枕は部屋の隅に移動していた。きっぱりと不自然に直立しており、さらにはもぞりもぞりと動いている。ゴツゴツと節くれ立った小さな腕が、その後ろから見えていた。
 しばらく見ていると、枕に隠れていたものがひょっこりと顔を出した。ぎょろりとした目玉、とんがった唇、ざんばらな白髪――ぼろぼろの布をまとった、河童の出来損ないのような小人である。正弘がおらずとも名前はわかる。妖怪枕返し。
 どういうつもりだ、と苛立ちを芽生えさせながら、体を起こして手を伸ばす。
「おい……返してくれよ、枕。寝たいんだから」
『へい、そりゃぁもう。あっしは枕返しと申しやすくらいですから、いっくらでもお返しいたしやすよ。ほい。あ、ほい、ほい』
 枕を畳の上に置き、両手を使ってころころとひっくり返す。小馬鹿にしたような言い回しに、勇弘はムッとして言い重ねた。
「そうじゃなくて。返してくれよ」
『だから返してるでやんす。ほい、ほい』
「ああ、もう……ひっくり返すとかじゃなくて、俺に返してくれ!」
 イライラをつのらせ、そう口走った瞬間。
 小さな妖怪の大きな両目が、ぬらりと怪しげな光を帯びた気がした。枕の下に片手を差し込み、一際高く、投げあげるようにして裏表を返す。
 同時に、勇弘もその場でひっくり返っていた。床側にぐいっと引っ張られるように、滑りもしないのにいきなり転ぶ。再び打ちつけてしまった頭に、けらけらけらと愉快げな笑い声が響いた。
「う、い……いってぇ。な、何だ、ってんだ……!?」
 頭を振りつつ身を起こす。既に枕返しの姿はなく、何度も何度も返された枕だけが、ぽつんと畳の上に残っていた。すぐに拾う気にもなれず、部屋の中をゆっくりと見回す――ちょうど背中側に目を向けた時、彼は頬を引きつらせた。
 壁一面に、目目連が出現している。
 お久しぶりねの愛想もなく、声が出せないので挨拶もなく。ただぞろぞろと、ぎょろぎょろと、大量の目が壁に張り付いているのだ。真っ直ぐに勇弘だけを見つめる、そのいくつかは笑みを含んで歪んでいた。まるで、彼の不様を楽しむかのように。
「……おいおいおい……!?」
 これは一体どういうことだ。
 眉根を寄せて、勇弘は腰を浮かせた。なにかヤバい。妖怪たちが久々に、組織だって何かを企んでいるようだ。標的はおそらく、いや間違いなく自分。しかしまさか、そんな、
「風邪だから……狙ってきた、とか言うなよな、てめーら……?」
『当然じゃねぇか。ひっひっひっ……!』
 ずるっ、と開け放たれた障子の外、廊下に首が降ってくる。時代錯誤なちょんまげ頭に、嫌みったらしいにやにや笑い――妖怪たちのまとめ役を自負しているらしい、ろくろ首だ。
『聞いたぜ、聞いたぜ。知ってるぜぇ……カゼになったら寝ないといけねぇ。ならば寝かすかほととぎすってんだ。俺たちがいつまでも大人しいと思ってんじゃねぇぞ、おう!?』
「……暇なのか? 遊んでほしいなら美織に言えよ」
『違うわぁッ!! てめぇ、妖怪ナメんのもほどほどにしゃーがれ!? 俺ぁてめーら人間どもが、なんだかんだで住み続けてんのが許せねぇんだよ! こいつは戦いなんだぜ。弱ってるところを叩くのぁ、基本中の基本だ……くっくっくっくっ』
 不敵な含み笑いをし、睨みつけてくるろくろ首。
「いや……別に、そこまで言うようなことでも」
 勇弘は額に汗しつつ、多様な意味合いを込めて呟いた。戦いというほど不穏な意識は持てないし、弱っているといってもただの風邪である。どうしてこうもいちいち、事を大袈裟にしたがるのだろうか。風邪についての理解が正しくないのかもしれない――というかむしろ、正しくないのだと思いたかった。ちゃんと認識した上でこの行動なら、ますますもって手に負えない。
(妖怪の中でも、特にこいつは疲れるんだよなぁ……)
 ぐったりと肩を落とす彼を見、ろくろ首は居丈高に続けた。
『どぉ〜〜〜してもやめてほしいってんならぁ……やめてやんねぇ。出て行くしかねぇ。ふはははは、てめぇらが風邪になるたびに、容赦なく責め苛んでやるぜ! 定期的になるんだろ!?』
「やっぱ理解してねぇし……うぅ」
 何度もすっ転んだ所為か、薄もやがかかったように頭がぼうっとしている。何はどうあれ、睡眠を邪魔されるのは鬱陶しかった――こんなくだらないことで風邪が悪化でもしようものなら、それこそ目も当てられない。早々に諦めてもらうのが得策だろう。
 勇弘はタオルを拾い上げるや否や、病人とは思えないほど俊敏にろくろ首へと投げつけた。が、ちょんまげ頭はにんまりと笑い、口を開けてかぷりとそれを受け止める。
「なにっ……!?」
『ひぇっひぇっひぇっ。あめぇ、あめ――』
 ばしッ
 続けて投げ放った枕が直撃し、ろくろ首は振り子のごとく仰け反った。くわえていたタオルを床に落とし、しばしぷるぷると痛みをこらえて、
『な……なにしやがるッ!? 二回も続けて投げるやつがあるか!?』
「しるか。どうでもいいからどっか行けよ。しらない世界へ帰れ、はやく」
『うわ、ひでぇ……なんだかわからんが実にひでぇぞ。だがな、そうやって余裕こいてられるのも今のうちだぜ? 猫叉と以津真天は堂々と裏切った上、市松もなんかやる気ねぇが……風邪ひいたてめぇに、もう明日はねぇ! 俺ぁ気づいたんだ!』
 そう言いつつも、あくまで体は隠しておきたいのか、首だけがうねうねとやたらに動き回って威嚇してくる。次に投げるなら正弘の置いていった本だな、などと思いつつ、勇弘は言った。
「気づいたって、何に?」
『ふっ。わからねぇのか……俺がこうして喋ってるだけでも、てめぇは眠ることができねぇ! 風邪は悪化し、ハイエンになる! 勝ったッ!』
 がすッがすッどかッ
 素晴らしいコントロールで三冊の本が連続して命中し、ろくろ首は悲鳴もなく天井から落下した――ぼいんと床でバウンドし、そのまま階段から落ちてゆく。
 ピッチャーになれるかな、などと呟いて、勇弘は背後を振り向いた。壁に出現していた目目連は、いつの間にやら消え失せている。目の前であれだけやってみせれば、それは退却もするだろうが。
「静かに寝たいだけだってのに……ったく」
 枕を拾い、洗面器にタオルを浸す。そのままほうっておいて、勇弘はため息とともに横になった。必要ない運動をした所為で、妙な汗をかいてしまっている。寒気などはないが、なかなか素直に治ってくれそうな類の風邪にも思えなかった。対策はひとつ、安静にして眠るしかない。
 自分が風邪をひいた所為で妖怪たちが活性化した、などと聞いたら正弘はどういう顔をするだろうか――考えながら目を閉じて、げんなりと二度目のため息をつく。きっと、自分の症状などは気にもせず、嬉しそうにおおそうかなどと叫ぶに違いない。というか、こういう予測が立ってしまうこと自体、まず憂慮しなければならないのではなかろうか。


 ……ぴちょん


 前髪をわずかに揺らして、風が静かに吹き抜けてゆく。先程と違い、ひんやりとした実に心地よい涼風だ。夏にもこういう風が吹くのだと、以前はなかなか気づけなかった。もっとも、都会に住んでいた頃は、妖怪に出遭うなどということもなかったが――


 ぴちょん……ぴちょん……


「ん……?」
 ふと勇弘は薄目を開けた。水音、である。少し前から聞こえていたが、別段気に掛けてもいなかった。おそらく、水を張った洗面器に、水滴が落ちているだけだろう。
 ――どこから?