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夏風邪 3
「う……う、うわあぁっ!?」 見上げて、思わずどたばたと這い逃げる。 布団脇に立ったずぶ濡れの女が、薄ら笑いを浮かべて彼を見下ろしていた。真っ黒いプリーツスカートや、同じく黒いひらひら付きシャツからぽたぽたとしたたる水滴が、洗面器のみならず、周りの畳までぐっしょりと濡らしているのである。 絶句する勇弘に、彼女はにやついた口調で言った。 『うふふ。うふうふ。びっくりした? びっくりした?』 『おはようさん』 続いて聞こえるふたつめの声。キンキンと甲高い少年のものだが、それらしき影はどこにも見当たらない。勇弘はもちろん、その理由を知っていた。 「お……お前は……!」 『お前だなんて言わないでよぅ。二口濡れ女、ってゆー名前があるんだから、そっちで呼んでほしいなー。あ、フレ子でもいいよ? あだ名なの。かわいいでしょぉ』 『ええ名前や』 妖怪二口と、妖怪濡れ女。この女の後頭部にある、ふたつめの巨大な口が二口という妖怪であり、発言する時はなぜか必ずセットで喋るのだ。他の妖怪たちに比べて、出で立ちや思考が随分と現代的な印象がある。もっと普通の、パステルな服装をすれば、ひょっとして人間で通るかもしれなかった。 それにしても、なぜいつも全身ずぶ濡れなのだろう? それが名前の由来だというのはわかるが、まったく摩訶不思議なことである。 「何なんだ、今度は……一体何しに出て来たんだよ」 『別に何も? ただ見てるだけだから、気にしないでいいよぉ』 『そゆこっちゃ』 「……いや。そんなこと言われても……」 何を企んでるんだ、と疑惑の視線を向ける。彼女はにっこり笑って、その場に正座した。じわ、と水が染み出してくるような――そこにいるだけで、空気がぐんと重みを増すような、奇怪な存在感がある。 勇弘は無言で立ち上がり、布団の端を持ってずりずりと引っ張った。部屋の隅まで移動させ、その上に座り込む。フレ子はなにやら哀しげに呻いた。 『うぅ。そんな嫌がらないでもぉ〜……何もしてないんだよ?』 『せんないこっちゃ』 「ただいるだけだからって、何もしてないとは限らないだろ」 きっぱり言い切ってやると、ずぶ濡れ妖怪は――苦笑いのような、ただ単に頬を引きつらせただけのような、微妙な顔をして目を逸らした。なんとも正直な反応であることだ。 勇弘はフレ子を睨みつけたまま、正弘の本を一冊手に取った。以前にも読んだことのある、背表紙に『妖怪』とだけ書かれた分厚い民俗書である。主たる内容は、勇弘には少々難解に過ぎるものだが、数多くの妖怪を分類し説明した図解ページも載っているのだ。 索引から『濡れ女』を探し出し、そのページを読む。 「……濡れ女。『雨の日に男に笑いかけ、笑い返してきた者に取り憑く。自身の湿気で周囲の物を腐らせ、取り憑いた人間を病に陥らせ殺す。水分を失うと消える』 ……なるほど」 『あは。バレちゃったよぅ。ぃえ〜い!』 『ぃえ〜い』 ブイサインなどしてくれる二口濡れ女。 勇弘は立ち上がり、にこっと笑った。本を適当に放り捨て、そのまま和室を出ていく。当然のように、濡れ女もいそいそと後をついてきた。 『なになに〜? どうしたの急に、出掛けるのぉ? ついてくよ?』 『逃げても無駄やで』 「そりゃこっちの台詞だ」 階段を下り、向かった先は風呂場である。脱衣所にある、数少ない電化製品をコンセントに接続しながら、彼は濡れ女の手を握った――指を絡めるような優しい恋人握り、ではもちろんなく、ただ逃がさないためだけに手首をギリリと握り込んだのであるが。 スイッチを『高温風』にオン。 ぶぃおー、と頼もしい音がして、手にしたドライヤーが駆動する。 『!? ちょ、ま、な、なにそれなにそれ!?』 『予想外や!?』 「ははははは乾けこんにゃろが」 情け容赦なく、顔面を主として手当たり次第に熱風を吹き付けてやる。途端に、じったらばったらと暴れ回り、フレ子は甲高い悲鳴を上げた。 『い、いやぁぁぁ熱ぅ〜っ!? あつ、か、乾くぅぅぅ湿気が飛ぶぅ〜〜〜っ!?』 『殺生や、殺生や〜!』 「うるせぇよ……笑顔で人の風邪悪化させよーとしやがって。いくら妖怪だって、やっていいことと悪いことくらいわかってもらわないとなぁ、あ〜?」 『ごめんなさいごめんなさいほんとごめんなさいぃっ! だめぇ〜顔はだめぇぇぇ、熱い、熱いよぉぉっ!』 『なんやいかがわしいでヌレやん!?』 ほどよく懲らしめたかな、と思う頃合いで手を放してやる。濡れ女はぴーぴー泣きながら、廊下を走ってどこやらへ消えていった。後頭部に貼り付いたでっかい口が、覚えちょれー、などと捨て台詞を残す。 ふー、と息をつき、勇弘はドライヤーを元に戻した。 「い、いかん……また無駄な運動をしてしまった」 なんとなく、妖怪たちの術中にハマっている気がしないでもない。随分とレベルの低いことだが、ウザったい、とさえ思わせれば相手の勝ちなのかもしれなかった。心なしか、喉の痛みが増している気がする。これはいよいよ休息しなければならない。 (実際、効果大かもな。風邪の弱り目を狙うってのは……) どこかで聞かれていては困るため、胸中で呟いて階段を登る。 それにしても、本当に妖怪たちに風邪という概念があったとは――正弘の言っていた、『病気をしない』という怪異認識に早くも黄色ランプである。それとも、知識として知っているだけだろうか。鬼蜘蛛あたりなら、それもありうる気はするが。 部屋の入り口に立って、しばし無言。 「あとね、カゼのときは、おふろに入っちゃいけないんだよ!」 『へぇ〜、そうなの?』 『知らなかったわ』 『どうして、だめなの、かな……?』 「しらない!」 美織が座敷の真ん中で、妖怪軍団と顔を突き合わせ、何恥じることなく堂々と情報交換を行っていた。 話題はもちろん風邪についてであるようで、囲まれているのが嬉しいのか、彼女は実に楽しげに講釈している。一反木綿だの市松人形だの、妖怪たちもふむふむと聞き入っているようだった。 「さむかったりー、すっぽんぽんでいたりー、オナカ出してねてるとカゼになるんだよ」 『寒くすればいいんだ?』 『じゃあやっぱりフレ子だね。ずぶ濡れにしちゃえ』 『カゼって、悪化すると、どうなるの、かな……? 死んじゃう、のかな?』 「コジレル、ってゆーんだよ。カゼがコジレちゃうと、ハイエンとかになっちゃって、大変なの! 死んじゃったりはしないと思うけど」 『ハイエン……てのはわかりませんけど、死なないなら安心ですね。少々派手にやっても……あっ』 明るい声をあげた一つ目小僧が、戸口に立つ勇弘に気づく。 ギリギリ、といった加減に表情を歪め、彼は部屋に踏み入ると同時に怒鳴った。 「てぇーめぇーえぇーらぁぁぁ〜〜〜ッ!?」 『うっ、うわぁー!?』 『怒ってる!? 逃げろ〜!』 『退却ですー!』 わらわらと、蜘蛛の子を散らすように逃げてゆく妖怪たち。残ったのはぽかんとした美織と、彼女の肩に留まっている、もはやマスコット的存在と化してきた妖鳥以津真天のみである。 |