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夏風邪 7
鬼蜘蛛は改めて言った。 「あたくしは、ご存じの通り本を好みますので……平常は下の書斎にて、読書に勤しんでおります。もしくは、沐浴をしておりますでしょうか」 「も……み、水浴び、ですか?」 「左様でございます。地下水で」 なぜか夜の滝壺でごうごうと冷水に打たれる、一目見ただけで一族郎党呪い殺されそうなビジュアルの彼女を想像していた勇弘は、拍子抜けするとともになるほどと頷いた。もともと彼女は蜘蛛なのである。わざわざ人の格好をして、水浴びなどしないだろう。 しかし、鬼蜘蛛の本体は大変に巨大だった記憶があるのだが。あんなものが地下に潜りでもしたら、山神家が転覆してしまいそうな――というか、昆虫は基本的に水に入ると溺死するのでは? そこのあたり、理屈ではないのだろうか。 「ろくろ首などは、刀の手入れを日課としているようでございますね」 「……に、日課ですか」 「趣味と言い換えたほうが、よろしいかもしれません」 ナチュラルに話を広げ、鬼蜘蛛は楽しげに頷いた。こういう事について語らうのが好きなのだろうか、奇妙な乗り気を口調から感じる。 「あのようななりをしております故、大刀にはこだわりがあるようで……暇さえあれば、打ち粉とにらめっこしております。蒐集にも熱を上げているようです」 「……さっきなんか、折れたーとか聞こえてきましたけど」 「まぁ、存じませんわ……おほほほほ。 二口濡れ女は、髪型の試行錯誤に精を出しているようでございます。時折あたくしのところに、理容の書を借りに参りますわね」 「か、髪型……納得していいような、したくないような……」 「一つ目小僧は将棋を嗜みますし、武士団『木の葉』の掌侍たちは、ここのところ得意の合戦劇をより深めようとしているようでございます。猫叉は、よく屋敷の屋根や近くの河原などで昼寝を……これは少々違いますでしょうか。何にせよ、そのような具合でございますよ」 なるほどー、と頷いて、ふと眉根を寄せる。 一つ目小僧や掌侍はともかくとして、猫叉が――どこで、昼寝をしているだと? 確かに近くには河原があるが、あの黒猫はそこまで出て行っているのか。 「妖怪って、この屋敷の中だけに出るもんじゃ……?」 「まぁ……うふふ。面白いことを仰いますのね」 鬼蜘蛛はにっこり微笑み、次いできっぱりと首を横に振った。 「もちろん、そのようなことはございませんとも。この屋敷の外にも妖怪はおりますし、あたくしどもも、屋敷の中だけを歩むわけではございません……猫叉などは素のままで出てゆきますし、あたくしも時折この格好で、外出することがございます」 「……そ……そぉですか……」 「妖怪は、どこにでもおりますのですよ。ここにも、そこにも、あそこにも」 美希が聞いたら、世を儚んで自害しそうな発言である。 げんなりとしながらも、勇弘は認識を改めた。この屋敷の突飛な妖怪たちが、そうまで幅広い行動範囲をもっていたとは。というか、鬼蜘蛛が外出するというのはもはや驚愕以外のなにものでもない。町に恐怖を撒き散らして、一体どうしようというのか――その場にひっそりと佇まれるだけでも、空気がぐんとその重みを増すというのに! 「どうかなさいましたか?」 「……いえ。全然。別に……」 笑顔を絶やさない鬼蜘蛛から目を逸らし、彼はともかくも眠ろうと思った。自分は病人なのである。難しいことを考えてはいけない。 目を閉じる。 (……あれ?) すぐに目を開く。目の端に鬼蜘蛛が座っていることを確かめて、なぜか奇妙な安堵と不安を同時に感じた。妖怪には理屈がない。しかし完全に洒落でもない。自分はどうして彼らと隣り合わせなのだろう、と今更ながらに考えかけ、やめた。それは難しい問題に違いない。ああ、自分はなぜ、あのとき「お試し期間」などと口にしたのだろうか! 「……鬼蜘蛛さん」 「何でございましょう」 「ろくろ首とかは、まだ人間のことが怖いんですか?」 言いながら、勇弘は再びまぶたを降ろした。そしてまたすぐに開く。 忙しないことだが、目を閉じた瞬間――なんともいえない違和感に襲われるのだ。自発的な暗闇の中、訪れるはずの慣れきった感覚が、どういうわけだか無性に胸の裡を引っ掻くのである。まぶたを降ろす、ただそれだけのことのはずなのに、まるでふわふわ浮いているかのように落ち着かない気分になってしまう。 この屋敷に棲む妖怪中、最も美しく、最も妖しく、そして最も勘弁してほしい相手である鬼蜘蛛が、自分の弱り目に傍にいるからだろうか――そう思うのがなんとなく嫌で、彼は無理矢理ギュッと目を閉じた。ただ落ち着きたいがため、べらべらと考えなしに続ける。 「俺、あの話し合いのときに、お試し期間っていう風に言いましたけど……少しでも、その、違ってきてるんでしょうか。延々怖がらせようとしてくるのは、もうぶっちゃけ別にいいんですけど。まだ、俺たちのこと……よくわからないとか」 「左様でございますねぇ……理解する、とまではいかないまでも、そろそろ勝手はわかってきたのでは。美織様から物を聞く、という手段も講じておりますことですし」 くすくすと笑う鬼蜘蛛の声だけが、何も異常なく聞こえてくる。また、目を開けたい衝動――胸騒ぎに近い欲求を感じたが、どうにか抑え込む。その必要があると思った。 なぜなら、自分は眠らなければならないのだから。 「もうしばらくすれば、慣れも出てきましょう。今しばらく、ご辛抱くださいませ」 「……慣れたら……どうなるんでしょう」 「……? 何と申されました?」 「妖怪が、俺たちの存在に慣れたら……その時は一体、お互い、どうなるんでしょう」 鬼蜘蛛は微笑ったようだった。 勇弘にそれがわかったのは、彼女の声が小さく弾むように、可笑しげな響きを帯びたからであった。ただそれだけで、他に理由はない。他には、まったく――少しの雰囲気から推し量ることも、わずかな気配から感じ取ることも――なにも、なかった。 「それは、もちろん……皆、楽しく暮らせるようになるのではございませんか。仲良くなる、ということでございましょう」 「…………。……そうですね」 きっとそうに違いない。彼女の言う通り、妖怪のことがすべてわかり、また妖怪に人間の子細を伝えることができる日が来るだろう。そうするために、自分はあのとき、妖怪たちを説得したのだ。 本当に? 「……そうですね」 気分が悪い。熱が出てきたのかもしれない。背筋がぐらついているような不安定感がある。目を開けたい。目を開けたい。妖怪のことを考えれば考えるほど、体調が悪化してゆく気がした。何も考えないと決めてからも、随分ごちゃごちゃと思考を絡まらせている。 「おやすみなさいませ」 「……はい」 つまりそうするしかないのだろうことには、もはや疑問の余地もなかった。 寝汗をかいて目を覚ましたときには、既に夜の帳が降りていた。真っ暗な天井に不快感を覚え、上体を起こして周囲を見回す。 完全な暗闇というわけではなく、開け放たれたままのベランダから、淡い月光が忍び込んできていた。部屋には勇弘一人だけである。しかし、鬼蜘蛛が彼に黙って立ち去ってしまったわけではないと、寝ぼけた頭をかきながら思い出す――あの後、ほんの少しだけ眠って、帰宅した母に起こされたのだ。その時に鬼蜘蛛は書斎へ戻っていった。勇弘はムカつく胃を抑えて軽く飯を食い、三日分の生活費を投じて購入された薬を有り難く飲み、再び床に就いていたのである。 (つーことは、もう夜中か……? ハラ減った……) 体に違和感はない。胃の痛みも治まったようだし、頭もすっきり爽快である。薬が良かったのか、若さ故にか。ともあれ、これ以上家庭に負担をかけずにすみそうだ。 パジャマの中にタオルを突っ込み、適当に体を拭きながら階下に降りる。座敷の面々はダンゴになって幸せそうに眠っているようだったが、なんと台所におにぎりが置いてあった。ありがたいことです、と手を合わせてから戴く。具が入っていないのはお約束だった。 家族を起こさないよう、みっつほどのおにぎりを両手と口で確保し、そろりそろりと廊下を戻る――泥棒っぽいビジュアルがとても気に入らなかった。さりとてむやみに音を立てるのもまずい。 (外で食おうかな……? ちょっとは涼しいかも) 思いつきに頷いて、玄関へ向かおうとした瞬間。 『う゛ぁ〜〜〜〜〜ッ!!』 「んぐぶッ!?」 突然天井から落下してきたちょんまげ頭が大音声を張り上げ、勇弘は息と米を詰まらせてひっくり返った。げほげほと咳き込む彼に、奇襲を成功させたクビ長妖怪が爆笑する。 『ぎゃーっはっはっはぁっ! やったぜ、思い知ったかバーカバーカ! このろくろ首様にかかっちゃあ、お前みてーなガキ一匹。小指よ、小指!』 「……てーめぇ〜……」 『怒ったか? ふへへ怒ったか? いつまでも妖怪サマなめてっからだってんだ! ざまーねぇなおい、尻もちついちゃってよ――て、な、なんだなんだ。何しやがるっ?』 口元の米粒を舐めとり、勇弘は手を伸ばしてろくろ首の顔面を掴んだ。そのまま、ギリギリと――床近くにまで引っ張り降ろし、パッと手を放す。 『どうあ〜〜〜〜〜ッ!?』 盛大な悲鳴とともに、ゴムぱっちんのような勢いでちょんまげ頭が天井に消えていった。ふん、と鼻を鳴らし、座敷を振り返る。 「……って、なんで今ので起きてないんだよ……」 気を遣った自分が哀しくなり、彼は落としてしまったおにぎりを拾い上げた。しばし、その白い三角形をじっと見つめ――手にしたまま、いそいそと玄関へ急ぐ。食べ物を粗末にしてはいけないのである。ましてや、あんなくだらないことで。 |