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夏風邪 8
予想通り、外は屋内よりも涼しかった。さらさらと木の葉をゆらす微風が、寝汗に濡れた前髪を撫でる。昼間の熱気は今にも沈みそうな上弦の月に溶け、それでもなんとも夏らしい、さっぱりした涼気を夜闇に漂わせている。 生け垣あたりまでぶらぶらと歩き、勇弘はおにぎりについた埃を丁寧に払った。今宵最後の輝きを放つ月光に照らし、何度か確かめてから口に運ぶ。 「……いつまで続くんだろ。こんな生活」 そう呟いてみたものの、さほどの不満があるわけではなかった。風邪くらいもう少し安心してひきたいし、飯くらいもう少し豪華なものが食いたいし、日常くらいもう少し超常現象から離れてほしい等々、思わないでもないのだが――もはや、大して気にしていない自分もいる。寝床でのぐだぐだした悩みが嘘のようだ。やはり単純に、疲れていただけなのだろうか。 「おいしい?」 「ああ。……ってうおあッ!?」 まるで垣根が喋ったかのような声に、驚いて跳び退る。見ると、ヒイラギの生け垣からちょこんと突き出す形で、茶色い頭が現れていた。眠たげな双眸が、じっと勇弘に向けられている。 また吹き出しそうになった米を飲み下し、彼は小さく息をついて言った。 「お……おどかすなよ。ったく、ろくろ首といい、あんたといい――」 「知らないわよ。そんなこと」 「……そうかよ」 相変わらず可愛げねぇなぁ、などと思いつつ見やる。緩くウェーブした薄茶色の髪。感情の片鱗も窺えないポーカーフェイス。肩の辺りまでしか見えないが、ピンク色の洋服を着込んでいる――普段は縁の下に寝転んでいるらしい、この屋敷の妖怪たちの長である。もっとも、本人にそんな気はないらしいが。 あの鬼蜘蛛すらも敬意を払うほどの力を持った少女。だというのに、恐れや緊張とは無縁の佇まいである。最もわけのわからない存在である彼女は、再びじっと、勇弘の手元を見つめた。 「おいしいの?」 「……え。ま、まぁ、うまいけど」 両手に持ったままのおにぎりを見下ろし、なんとなく口籠もる。さっき思いきり落としてしまったこともアレだが、そもそも相手の意図が読めなかった。おにぎりが旨いからどうだと言うのだろうか。何のつもりだ、そんな穴の空くほど―― 「……妖怪って、メシ食うのか?」 「さぁ。食べるんじゃないの」 「…………。……いるか?」 「いる」 なんだこの流れ、と小さく呻いてしまうほどスムーズに、長は差し出したおにぎりを受け取った。ちんまりした米の塊を、さらにちんまりした両手が支えている。喋る時よりもむしろ大きく、その口が開き、かぷりとかじりついた。 なんだか妙に萌える構図である。 (って何考えてんだ俺は……!) 自発的なロリコン疑惑に頭を抱える勇弘に構わず、少女はむぐむぐと、珍味佳肴を味わうかのようにゆっくり咀嚼した。またじっと視線を注ぎ、いくぶん声に抑揚を生む。 「こんな味なんだ……」 「……食ったことなかったのか? ってまぁ、そりゃそうか。……でも、あれ? え? ……なんなんだ?」 「なにが」 聞き返されても答えられずにいると、長はまたぱくりとおにぎりをかじった。むぐむぐむぐ、かぷり。むぐむぐむぐむぐ、ぱくり。緩慢な動作で、少しずつ削るように食べている――はずだったのだが、ふと気づくと最後のひとかけが彼女の口の中に消えていた。まさかずっと見つめてしまっていたのか、と心の底から自己嫌悪に陥ってみたりする勇弘である。 こく、と喉を鳴らして飲み下し、少女はしばらく棒立ちしていた。両手をぶらんと体の脇に垂らし、小首を傾げて呟く。 「……わかんない」 「あ、あんたがわかんねーよ……。ほんっと妖怪っぽくないな」 反応がない。依然として眠たげな目を夜空に向け、物思いに耽っているようだ――とはいえ、実際何を考えているかなど想像もできたものではないが。何も考えていない、という可能性も多分にあり得る。 勇弘はカリカリと耳の後ろをかき、呆れた口調で言葉を続けた。 「まさか、ほんとに食うとは……妖怪ってそんな、大丈夫なのか? 消化できるのかよ。トイレとか――」 「あんまり気にしないほうがいいわよ?」 いつも通りの、淡泊な口調で遮られる。半分だけ開かれた少女の瞳が、月光を浴びてわずかに光った。 人間としか思えない――そんな様子で、あっさりと告げる。 「人間は人間。妖怪は妖怪。なんだか、変な勘違いしてない?」 「……え?」 「一方を基準にしてみたところで、もう一方を量ることはできない。あんたが気にしてるような、見えるだの、見えないだののことは特にね。……ほら」 きょとんとしていると、長は生け垣越しに片手を伸ばした。無造作な動作で、勇弘の胸板を軽く小突く―― ように見えたその手は、すぷ、と何の抵抗もなく彼の体に入り込んだ。 「――っな……!?」 全身が強ばって息が詰まり、驚きに引きつった声が途切れる。 無表情に、まったく無表情なままに、少女は片手を彼に突っ込んでいた。何の感触もない。痛みもない。いや――触れられているその箇所が、痺れたように何も伝えてこないだけだ。 何をしているのだ。 何をされているのだ。 目に映る光景と、ありえない感覚と。混乱し、そして恐怖が生まれるその直前に、長はその手を引き抜いていた。何の異常もなく異常を行い、再び同じ手を伸ばしてくる。 「……や、め――」 「ほら」 トン と軽く胸を押され、勇弘はよろめいて尻もちをついた。敷石の角に腰を打ちつけ、重い痛みが背骨に走る。 しかし、そんなことには構っていられず、彼は愕然として少女を見上げた。何が起こったのか、理解は元より把握するのにも時間がかかる。彼女の手は、自分の体を平然と突き抜けて――その同じ仕草で、次は普通に触れた。動作にまったく差違はなかった。 だとしたら、一体。 何が起こったというのだ。 「あんまり気にしないほうがいいわよ」 同じ台詞を繰り返し、彼女は夜半の空を見上げた。つまらなさそうな、いつもの表情で。 「そういうものなんだから。人間だって、妖怪だって、自分たちのこと何ひとつわかってない。それがわかってるから、わかってないなりにうまくやる方法を考えたんでしょ」 「……なにを、言って――」 「妖怪よ。人間じゃない。犬でも猫でもなんでもない。けど人間も、犬も、猫も、相手のことをすべてわかってから付き合いはじめたわけじゃないのよ。……折谷戸も、そこのところがわかってないみたいね。ほんと、面倒くさいわ」 ふ、と小さく息をつく。その瞬間に少女は消え失せていた。忽然と、前触れもなく、その場からいなくなってしまった。 しばらく、勇弘はそのまま座り込んでいた。呆けたような視線を中空に向け、妖怪の言葉を反芻する。気にしないほうがいい。そういうものなのだから。 しかし。 「お……俺は」 声が漏れる。再びおにぎりを落としてしまっていたが、今に至ってはどうでもいい。 「俺は……こういうことを」 こういうことを知りたかったんじゃないのか? 今更ながら呼吸が荒くなる。緊張がぶり返してきた。少女の小さな手が差し込まれていた右胸を、ギュッと両手で押さえつける――はっきりした感覚が戻ってきていた。心臓が早鐘のように鳴っている。 妖怪に触れるという行動だけなら、これまでも随分な刺激とともに経験してきた。 だが、そう、そうなのだ。妖怪には物理法則が通用しない。さわれたり、さわれなかったり。壁をすり抜けたり、壁にぶち当たったり。実に適当で、中途半端で、しかしまったく洒落にならない。それが一体どういうことか――何ができ、何ができず、自分たちに対してどう在るのか――自分は知りたかったのではないか。そしてそれは、たった今体験したことの通り、まったく、まったくわけのわからない、理屈のないものだということなのだろう。 長はつまり、ある種の答えを示してくれたのだ。ここ数日、彼がずっと考えていたことに対して。 「……けど……けど、そうじゃない。それで終わりに、しちゃ、ダメだろう……!」 ぶるッ、と背筋が大きく震える。 この屋敷に住む、妖怪たちと隣り合うことの意味が、少しだけ改められた気がした。相手は人間ではないのだ。姿形がよく似ていて、なまじっか言葉も通じてしまう。それ故に自分たち人間を、そう、妖怪を知る基準にしていたのかもしれない。 新種の動物――いや、生物かどうかもいまだわからない。 「新種の存在、とでも思え……ってか。その通りだ……だけど」 それがどういう存在なのか、知りたい。理解したい。 だが、自分に何ができるというのだろう? 勇弘は夜空を見上げた。夜明けまではまだ遠いが、月はもうほとんど沈んでしまっている。彼女なら、知っているのだろうか――この世にすまうあらゆる存在と、幾千幾万の夜を共にしてきた彼女なら。しかし自分は知らない。知りようがあるのかどうかもわからない。 皓い光を浴びているうちに、気分は随分と落ち着いてくれた。 寝床に戻る気にはなれなかったが、そのままで少し目を閉じてみる。今のところは、そういうものとしておくしかない――何もわからないなら、わからないなりに。相手に友好を示すとき、必ずしも理解だけがその全てを担うわけではないのだ。 縁の下の女の子。 「妖怪の長は……やっぱり、あいつか」 苦笑し、立ち上がる。おにぎりは蟻に饗することにして、勇弘は屋敷に入っていった。 眠気はない。しかし、月光が消えるその瞬間を、見届けたくはなかった。 |