妖怪ヶ島 2


 何か喋らなければ、と思い至ったのは、対面から三十秒ほども過ぎた頃だったのだが。
「……あなたは?」
 小さく聞こえたのは女の声で、勇弘はハッと横手を見た。
 屋敷の板塀に寄り添うようにして、少女が一人立っている。僧侶の存在感が異様に過ぎ、彼女もまた動いていなかったので、まったく気づいていなかった。年の頃は、十四、五――中学生くらいだろうか。白いTシャツに黒いスラックス、薄手のベスト。モノクロカラーなのは僧と同じであるが、シンプルな佇まいはどこか涼しげですらあった。やや垂れ気味の大きな瞳が、ぼんやりとこちらを見つめている。
 とりあえず、状況の意味がわからないことには、なんら変わりなかった。
「あなたは、って――」


 ちりーん


 またも鈴が鳴り、言葉を切る。と、
「むぅ……」
 入れ替わるように、低い呻き声が響いた。錫杖の先が、つい、と菅笠を持ち上げる――口元を厳しく引き締めた、老爺の顔が現れた。鋭い、という形容がぴったりと当てはまる眼差しで、じろじろと勇弘を観察している。
 彼はなんとなく眉根を寄せた。僧侶が老人であったことが予想外なわけではなかったが、しかし一体何者なのだろう……? とりあえず、妖怪ではなさそうだが。
 カツッ、と錫杖の石突きが鳴る。僧侶も少女も、それきり喋らない。
「あ……その。お布施、とかだったりしたら……そういうの、俺ちょっとわかんないんですけど」
 とりあえず少女の存在は置いといて、勇弘は老爺に向かって言った。なけなしの知識をかき集め、相手の目的を推し量る。お坊さんといえばお布施、という単純な発想しか出てこないが、少なくともそんな金など山神家にはない。
 僧侶が、一層まなじりを厳しくする。ほとんど睨みつけるような具合だ。真一文字に退き結ばれた薄い唇の端から、またも重々しい唸りが漏れる。
「うむ……」
「そうね、おじいちゃん。あたしもそう思う」
 は?
 ごくごく自然体で呟いた少女に、勇弘はきょとんと眉根を開いた。いや、呟いた、というよりは――今の、老人の呻き声に言葉を返したような、そんな様子にも思えたのだが。


 ちりり〜リッ


 まともに反応できない彼を置き去りにするかのように、涼やかな音が微風に流れる。と思いきや、僧侶が指で鈴を止め、こちらを見たまま横に差し出した。無表情、というよりは、暑さの所為で色々と溶けかけてしまってすらいるような、とろんとした顔で少女が受け取る。
 そこまでは、勇弘も実際ぼんやりと、レトロな映画を眺めるようにただただ見やっていたのだが。
 ブンッ
 刹那。僧侶が大きく身を躍らせ、衣の裾を巻き上げてすちゃりと錫杖を構えた時には、さすがに両目が点になるのがはっきりと自覚できてしまった。槍のように腰だめに持ち、先端をまっすぐ勇弘の額に向けている。
 喋れないどころか動けないでいると、また僧が唸った。
「むぅぅ」
「我が名は常円。常なる円と書いて、安藤濤釈空常円」
 老人の背後にささっと回り込み、モノクロ感を際だたせながら少女が言う。やはりまっすぐにこちらを見つめて、まるで老爺の呻きを通訳するかのように――というか、きっとそうなのだろう。なんとなくそんな気がして、勇弘はじりっと後ずさった。この屋敷に越してきてから、不本意に培った色々な感覚が、極めて簡潔に警鐘を鳴らしてくれているようだ。
 こいつら、なんかヤバい。
「あ……あのぅ……?」
「ちなみに、わたしは安藤緋梨。緋色の梨と書いて、あかり」
「むうぅぅぅ……!」
 おずおずとした呼びかけを無視し、勝手に自己紹介する少女。一際長い呻きを残し、老人は一歩前へ出た――得体の知れない何かに圧し込まれて、再び後ずさってしまいそうになるが、これ以上退がると門の中にまで入ってしまう。それはなるべく避けたい気がして、勇弘はぐっと踏み留まった。
 心なしか、僧侶の口元が笑みの形に歪んだような。それを確認する間もなく、少女がきりっと眉根を寄せて言う。
「戒名賜りて五十年。老いたりとはいえ――」
 ああやっぱり『むぅ』を通訳してるんだな、と確信に至ると同時。ぎしり、と音がするほど強く、僧侶が錫杖を握り込んだ。
「――むぅんッ!」
「妖怪風情に施しを受けるような、腐った根性など持ち合わせておらぬわ!」
 直後。
 凄まじい速度で打ち出された錫杖の先端を、勇弘は上体だけを捻ってかわした。眼前すぐそこを行き過ぎたそれが、ぴたりと停止したかと思うと、今度は真下に打ち下ろされてくる。
「なんっ……!?」
 でだよ、とは胸中で続け、彼は反動を利用して後ろへ跳んだ。錫杖の金具が前髪をかすめる。
 石畳を踵でこすり、無理矢理動きを止めた――さすがに、頬が引きつるのを禁じ得ない。いきなり何てことをするんだ。一体こいつら何なんだ。
 というか、
(い、今……妖怪、って……?)
「むぅ……?」
「へぇ……? かわしたんだ。おじいちゃんの突きを」
 門の敷居に錫杖を打ち付けた姿勢のまま、僧侶は驚いたように勇弘を見ていた。その肩の後ろから覗き込み、少女はなにやら感心したような表情を見せている。とろんとした垂れ目が、ぱちぱちと数度瞬いた。
「なかなかやるわね……さすが、最重要危険区域に棲む妖怪、ってところかしら? 気を抜いちゃダメよ、おじいちゃん」
「うむ」
「ちょ、ちょ……ちょっと待て。いいから待て。とにかく待て。なんか今、すごい普通に人のこと妖怪呼ばわりしなかったか? あんた」
 こくり、と彼女――安藤緋梨というらしい少女は、迷いも見せず頷いた。何言ってんだ、と言い返すより早く、当たり前のような語調で続ける。
「だって、ここは妖怪屋敷だもの」
 ギク、と一瞬動きが強ばった。
 ここは妖怪屋敷。そう、その通り。たくさん妖怪が棲んでいる。
 ――どうしてそんなことが知られているのだ!?
「むぅんッ!」
 敷居を跳び越えて中に押し入り、僧侶、常円が大きく踏み込んでくる。貫き通す一撃を、勇弘は斜めに退がってかわした。同じく敷地内に入ってきながら、少女がさらに言う。
「あたしたちは、除霊、妖怪退治のエキスパート……安藤家の者。抵抗するだけ無駄というものよ。大人しく成仏して?」
 大体そんなところではないかと、話の途中から思ってはいたのだが。勇弘は一瞬だけ天を仰ぎ、遠い蒼穹に問い合わせた。静かに暮らそうとしているだけなのに、
(どうしてこう、ややこしい話が次々向こうからやってくるんだッ!?)
 こういう時に限っていない両親に胸中で中指を立てつつ、思いきり振り抜かれた錫杖をかわす。とりあえず自分に明日はあるのか、それがどうにも気がかりだった。