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妖怪ヶ島 8
時は流れて、空は夕焼け。 「へぇ〜。それは惜しいことしたなぁ」 風呂上がりの正弘は、水道水をごくごくと飲み干して畳にあぐらをかいた。同じく風呂上がり、縁側で蚊取り線香を抱いて涼んでいた勇弘は、眉根を寄せて聞き返す。 「惜しいって、なにが?」 「そんな面白いことがあったなら、ぜひとも家にいたかったじゃないか。なに、誰だって? バンドウ?」 「安藤だよ。律成宗……とかなんとか言ってたけど。てゆーか面白くなんてなかったよ、いきなり成仏しろーとか言われて怪我させられたんだぞ、俺は?」 投げ飛ばされた時にすりむいてしまった、肘と膝を見せて訴える。あれだけやりあって擦り傷で済んだというのも、なかなかすごい話ではあった。正弘はからからと笑って、 「いやいや。妖怪を人間と勘違いするならともかく、人間を妖怪と勘違いするなんて、面白い人たちじゃないか。父さんは会ってみたかったよ」 「……ん? 妖怪を、にん……え、あれ? ……なんか今、すごい不思議な発言を聞いたような気がするけど、考え出すと頭がこんがらがる……」 「しかし、美しいなぁ。同じ家にすむ人間と妖怪が手を取り合い、敵を退ける! はっは。お前もだんだんわかってきたじゃないか、ユウ」 やっぱダメか――と勇弘は嘆息した。なんでもご機嫌な方向で考えてしまう、この父の脳天気具合はいかんともしがたい。それに、別に自分が妖怪と協力したわけではなく、美織が桃太郎ごっこの延長でやっつけてしまっただけなのだが。 その美織はといえば、台所に立つ母に、得意満面で今日の武勇伝を語り聞かせているようだった。見えはしないがそちらに目を向け、勇弘はなんとなく両足をマッサージする。たったあれだけで、まさか筋肉痛になることはないだろうけれども、念のためである。 「鬼蜘蛛さんに聞いたけど、あいつら前にも来たことあるんだってさ。さんざん暴れたらしいけど、結局退治できずにつまみ出されて。そのリベンジに来てたんだろ」 「なるほどな。常連の除霊屋さんだったのか」 「……そうじゃないことを心から願うけどね」 あんな連中にたびたび来られては、それこそたまったものではない。妖怪だけでも十分厄介であるのに、そのうえ人間とも妖怪ともつかないヤツらとは関わりたくもなかった。 あの後鬼蜘蛛は、笑顔で語ってくれたものだ――やはりあたくしども妖怪に色々と個体差がございます以上に人間の方々は個性的でございますがあのお二方に関しましては少々度外れていると申しましょうか本当に人間かどうかすら疑わしゅうございましたのでいささか本気でお相手させていただきましたところ存外素直に引き下がっていただけたのでございますですわをほほほほ、しかし勇弘様には改めて感服させられましてございます退かず慌てず傷つけず貴方様こそが真の人格者ところであたくしの身体の中にはもうご興味ございませんのかしら――などなど。 最後の辺りはどうにかうやむやにしたが、ともかくもあの鬼蜘蛛を本気にさせたのだとすると、やはりそれなりの実力をもった二人だったのだろう。もちろん、知ったことではないが。 (てか、除霊とか、妖怪退治とか……そういうことやってるヤツがほんとにいるなんてこと自体、俺にとっちゃびっくりだっての) 脳内に、緋梨の声がリフレインする。 ――この世に寄り来る邪悪を排し、闇夜の平和を保つ者! 勇弘はため息をついた。彼女ら二人と、ここに棲む妖怪と。どちらが山神家にとって邪悪かといえば、それはむしろあの二人のほうなのかもしれない。 「なんか、より一層……わかんなくなった気がするよ」 「なにがだ? 妖怪がか?」 「妖怪もだし……人間も」 「おにーちゃぁ〜〜〜んッ!?」 叫び声に、振り向く。いつの間にやら、美織が台所から打って出てきていた――桃太郎の絵本を盾のように構え、いまだしっかりと例のハタキを持って、ギラギラとこちらを睨んでいる。なにやら怒っているようだ。 「ど……どうした?」 「おにーちゃんのウソツキ! ママ、まぢょじゃないじゃん! 一つ目さんもネコちゃんも、人間じゃないんじゃーん!」 「? ……ああ」 どうやら、最初に読み聞かせた適当桃太郎のことを言っているようである。美織が桃太郎役をやったので、美希が魔女ということになるわけか――合点がいくと同時に笑いを堪えて、勇弘はぱたぱたと片手を振った。 「やっぱお前、アレ信じてたのか。うん、嘘だよ。桃太郎が人造人間なわけねぇし」 「えー!?」 「どこにも書いてないことを全部信じるお前は、なんてゆーかうん、スゴく面白かった。ま、これからは少し、疑うってことも覚えような」 美織は、愕然としたようにしばらくぷるぷる震えていたが。 突然、絵本をぽいと放り出して、その手でビシリと兄を指さした。 「オニだー!」 「……へ?」 「おにーちゃんがオニだったんだ! いちばん近くにオニがいたんだ! このぉやっつけてやる、イツマデさーん!?」 『イツマデ〜!』 どこからともなくバサバサと、五羽ほどの妖鳥が舞い降りてくる。まさか本気でやってくるとは思いもせず、勇弘は慌てて腰を浮かせた。 「お、おい。こら、ちょ、待てお前――」 「いけー!」 なぜか『犬のおまわりさん』を合唱しつつ、以津真天が勇弘を追い回す。サンダルをつっかけて中庭へ逃げ出すが、カケラも意味はなく飛んで追いかけてきた。正弘はげらげら笑うだけで、助けようとかそういう気配すらない。 「でーっ!? こら、近寄るな! くそ、お前らそんなに好戦的だったか!?」 「おにーちゃん! それ、ミオのサンダル!」 「あ、道理で小さいと思った。でもこれでここまで来れないだろ、ふっふ――」 刹那、縁の下にピンク色の影が見えた。 相も変わらずぼんやり寝そべる、緩く波打った茶髪の少女。眠たげにこちらを見る半眼が、それでも月光を映してきらめいた。 妖怪の瞳ってこんなだったっけか、と瞬間的に弛緩した、奇妙な思考の片隅で思う。何が自分をそうさせているのか、まったくもってわかりようもないが、この少女を眺めていると時々そういう感覚に陥ることがあった。スローモーションになるのとは違う。知覚が鋭敏化するわけでもない。ぽっかりと開いた、なにかの――なにかの――すきまに――落ちていくような。少しだけ怖い、しかし懐かしい気もする感触。 「……仲がいいのね?」 ほんのわずかだけ唇が開いた呟きは、それでもしっかりと彼の耳に届いた。届いたからこそ否定しようと、縁の下の女の子を指さした時。 「とおー!!」 ズン 下腹部に絶大な衝撃を受け、勇弘は止まった。停止した。 大まかな動きだけではない。出掛けた言葉も、眼球の動きも。向けた指先も、果ては呼吸すらも。止まらなかったのは、基本的にどうしようもないものだけだ――ありがたいことには、心臓の鼓動とか。ありがたくないことには、痛覚神経とか。 ゆっくりと仰向けに倒れる彼に、さすがに焦ったような妹の叫びが聞こえた。 「お、オニ……ちが、おにーちゃん!? うわぁ、おにーちゃ〜ん!?」 「おま……裸足で、庭に……つーか……そこは、狙う、な……」 「ど、どうしたんだユウ。おい、母さん、母さーん!? 救急車をー!」 「ええっ!? うちに電話なんてないわよ!?」 パタパタと以津真天が舞い降りてくるのを視界の端に捉え、色々な意味で泣きたくなるのを必死で我慢する。勇弘はぐったりと脱力した。本当にわからない。妖怪も、人間も。 土の上から見上げた月は、いつもより少し、黄色く見えた。 |