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孫子の兵法 1
「うぅ〜〜〜……!」 と、朝もはよから呻いているのは、山神一家の良妻賢母。唯一まともな怖がりさんだが常識人とはちと違う、山神美希三十八才である。包丁片手に菜っ葉を刻みつつ、だらだらと脂汗を流している。その視線はなんとも危なげなことに、ちらちらと手元を離れて横合いに流れていた。 無理もないといえば、無理もないことである――彼女が向かうまな板の真横では、タンタカタンタカと無駄に軽快な音を響かせて、菜箸がタップダンスを踊っているのだから。 台所に棲まうつくも神。正弘曰くそういう存在らしいが、美希にしてみれば単なる妖怪で事足りる。ここのところ、毎朝こうして歓迎してくれるのだ。その意図が何なのかは相変わらずわからないが、スポーティなビートはどこか楽しげですらあった。 「気にしない……気にしない……」 喉の奥で唸り、手元に意識を集中する。この家に越してきて早一ヶ月。いかな相手が超常現象といえど、そろそろ適応を見せねばなるまい。 トントントントン タンタンタカタカ まな板を叩く一定リズムの低音が、妖怪と珍奇なコラボを呈する。 トントントントン タカタンタカタン トントンぶしッ 指を切ったらしい。 「……あ……あああぁぁぁもお〜〜〜〜〜ッ!?」 ヘッドバンギングとともに天井を仰ぎ、美希は狂おしく絶叫した。包丁を逆手に構え、出血した指を口にくわえて、ギロリと菜箸を睨みつける。表情にシャレや余裕がない分、それはそれは迫力がある。 さすがに危機感を覚えたのか、菜箸は小さく跳び上がって逃げ出した。ポットの後ろへちょこまかと走り去り、かくれんぼよろしくドキドキ様子を窺いはじめる。状況によってはバカにしているとも取られかねない行動だが、なにしろ顔も何もないので、そこらへん問題になりようがなかった。 しばし、朝の空気の中で膠着状態に陥っていたが――小さく息をつき、美希は一旦包丁を置いた。これではいつものパターンである。適応を見せるつもりが、動揺と失態をさそわれてしまっては世話はない。冷静にならなければ。 幸いなことに、この菜箸はそんなに厄介な部類の相手ではないはずだ。少なくとも今まで、精神以外にはそうそう大きなダメージを被っているわけでもない。他の連中に比べれば、いくらか御しやすいだろう。 「まぁ、今までがそうだからって不安なことに変わりはないし、精神ダメージって一番マズい気がしないでもないけど……そんなことばっか言ってもいられないわ。早く作らないと、今日はお弁当がいるのに」 ぶつぶつ呟くと、多少は気分も落ち着いてくれるような気がする。 美希は菜っ葉を皿に移し、卵を数個ボウルに割った。さかさかと調味料を加え、手鍋を用意し、さて混ぜようとしたところで、 「……菜箸使えないじゃないっ……!」 いまだポットの影からこちらを覗いているつくも神に、なんともいえない微妙な視線を向ける。訴えるような、非難するような、苦難の人生を呪うような。無論通じるわけもなく、菜箸は隠れたまま、控えめにタカタカとタップした。 どうしよう、と懊悩する。他の箸や割り箸を使ってもいいのだが、なんだかひどく愚かしい行為のような気がした。使える菜箸が目の前にあるのに、妖怪化しているというだけわざわざ他のものを使うとは――いやまて。十分な理由なのではないか? 食器が妖怪になったら使えないのは当たり前ではないか。妖怪化した『だけで』などと過小に考えるのがそもそもおかしいのである。 「あたしまで毒されてきてるのかしら……ダメ、ダメよ。慣れちゃダメ。こんな異常な事態に慣れても馴れてもダメ……」 またもぶつぶつ言いつつ、食器棚から自分の箸を取り出す。卵を溶き、熱した手鍋に三分の一ほどを流し込んで、卵焼きを作ろうとした時。 ぴょん、と菜箸がステップを踏み、手鍋の中へと飛び込んできた。 「ひいぃぃぃッ!?」 手鍋を放し、豪快に後ずさる。豪快すぎて壁で後頭部を打つが、そんなことを気にしている余裕はない。 菜箸は、放置された手鍋の中で、くるりんくるりんと回っていた。タップを踏んでいるのではない。たとえるなら、スケートリンクを滑るフィギュア選手のような、無駄な軽やかさで――要するに、卵をかき混ぜていた。しゃっかしゃっかと形を整え、ほどよいところでくるんとターン。卵がナチュラルに回転し、鍋の奥へ転がってゆく。 「……う……?」 なにやら訴えられているような気がして、美希はそろそろと近付いた。残りの卵を少し、菜箸の足元に流し込んでやる――タタン、と小さくステップし、彼(?)はまた鍋の中を滑りはじめた。 図らずも、手伝われている。 「わ……わけわかんない……」 しかし思えば、前にもこんなことがあった。調理を放り出して逃げだして、戻ってきてみれば料理が完成している。あれはまさか、いいやきっと、この珍妙な菜箸がしてくれていたのだろう。 ぽかんと棒立ちする美希の目の前で、着々と出汁巻き卵が完成していった。 そんな、奇妙に平和な光景を、 『……見た? フッちん』 『見たで、ヌレやん』 隠れてこそこそと盗み見る人影があった。 黒髪、黒シャツ、黒スカート。超ミニのそれらから伸びる手足は対照的に白く、そしてなぜだか水に濡れていた。いや、手足だけではない――着ている服や髪の毛など、その少女の全身がじったりと湿気を帯びているのだ。 『なんかちょっと、えぇー、どーしよう。対応に困るもの見ちゃったねぇ』 『よりにもよって、初っ端からなぁ』 台所の外、廊下の壁から半身を突き出した異様なビジュアルだが、そこにいるのは彼女一人のように見える。しかし聞こえてくる声は若い女のものと、小さな男の子のキンキンしたそれであった。無論後者の声は、女の後頭部、髪に隠れて今は見えない、巨大な口がその発生源となっている。 妖怪二口と、濡れ女――あわせて二口濡れ女は、踊る菜箸にビクつきながらも調理を再開した美希を睨み、揃ってむぅーと呻き声をあげた。 『台所の……せっかく仲間に入れてあげようと思ってたのにぃ。やっぱり新人は扱いづらいね』 『台所とられてもうたかのう』 『そうだね。ま、別にいいけどぉ……でも、な〜んとなく憂鬱だなぁ。長じゃないけど、もう面倒になってきちゃった』 『早いて』 『そうだけどさぁ』 ごそごそと右手で懐を探り、濡れ女は何かを取り出した。 掌ほどの、小さな人形――いや、人形ではない。ぐったりと脱力しているが、少女の手の上でそれはぱちりと目を開いた。ゆったりした長着をぴらぴらさせ、立ち上がったかと思うと唐突に泣きはじめる。 『うぇ、う、ふぇぇぇ〜〜〜っ。ふぇう、うぇ、うぇっ……』 『あ、あちゃちゃ。ごめんごめん木霊、な、泣きやんでよぅ』 『片割れがおらんさかい、不機嫌なんやな』 『うぇぇ、うぇぇぇぇ〜。うくっ……うっく、うぇぇ……!』 『いないいない、ばぁ〜。ねー、木霊ちゃんいい子だねぇー。ほらっ、フッちんもやりなよ!』 『そうかて。どないせぇちゅーねん』 ぐずる小人に向かって、ふわわっと濡れ女の髪が動いた。黒々とした幾房かが触手のように伸び、小さな顎や顔をなでなでする。物理法則うんぬんなどは持ち出すだけ無駄というものであるが、なかなかに異様なビジュアルである。 |