孫子の兵法 2


 ぱちゃぱちゃと濡れた髪が面白いのか、小人は存外すぐに笑顔になった。
『ふぇっ、う。うひゃ、うふふ……ふふ、ふふふ〜』
『ほ。お見事フッちん……さて。あー、あ〜』
 濡れ女は、小人――木霊の片耳に口元を寄せた。マイクをテストするかのように、何度か発声を繰り返す。
『あー。あー? もしも〜し。ろくろ首ぃ?』
『おうっ。どうしたぃ、フレ子?』
 可愛らしい木霊の口から、無骨で江戸っ子なろくろ首の声が容赦なく飛び出してきた。しかし本人はただにこにこと、濡れ女の髪と戯れている。
 凄まじく異様な光景ではあるが、彼女はあっさりと応答した。
『なんかねぇ、スゴいのよ。スゴいことになっちゃってるよ〜』
『な、なんでい、スゴいことって。またあのガキか?』
『ううん〜、母親のほう。怖がるふりして、妖怪を懐柔していってるんだよ!』
『こらえらいこっちゃで』
 離れたところにいるろくろ首と、木霊を使って通信しているらしい。う〜む、とむつかしげな呻きが聞こえた。
『そいつぁいけねぇ。ただでさえ頭数が少ねんだ。ここはひとつ、おめーが怖がらせて場をうやむやにする、とかできねぇか?』
『えぇ〜? 弱点探るだけじゃなかったのぉ? それにあたし、直接怖がらせるのとかにはあんーまり向いてないんだよねぇ……』
『せやのう』
『大丈夫だいじょーぶ! その女はアレだ、姿見せただけで結構怖がってくれっから。一発びしーっとやってやれ!』
『うぅ〜ん……そんなこと言われてもぉ……』
 そろりそろりと壁から抜け出て、濡れ女はキッチンを覗き込んだ。出汁巻き卵が完成したらしく、美希が怖々と皿に移している。やるなら今しかないだろう。
 しかし、元々彼女は「おどかす」派ではなく、「とりつく」派の妖怪なのだ。よってこれまでの嫌がらせ大作戦においても、第一線に立っていなかった。いきなり怖がらせろと言われても、果たして一体、どうしたものやら。
『うーん。どうしよぅ、どうしよぅ……』
『まぁ、とにかく行ってみーな――』
「あぁ〜っ!」
 突然の歓声に、ギクリとして振り向く。
 パジャマ姿のお子様が一人、キラキラした笑顔でこちらを見つめていた。寝起きなのだろう、柔らかそうな髪があっちこっち跳ねている。悪意のない危険を感じた瞬間、彼女、山神美織は廊下を蹴って、ででででと足音高く突撃してきた。
「よーかいさんだぁーっ!」
『ひ、ひいいいいっ!?』
『あかーん!?』
『な、なんだお前ら? どうした――』
 引きつった悲鳴をあげ、なりふり構わず踵を返す。逃げ出さずにはいられなかった――なにしろ相手は、この屋敷に住む人間たちの中でも最も厄介な少女なのである。何をするつもりかはしらないが、捕まりでもしたらろくな事にならないだろうことは容易に予測できる。
 もはや怖がらせるどころの話ではない。
 しかし当然、逃げた先は台所なのであり、人間側からも派手な悲鳴があがることとなった。
「いっ……きょあえぇぇぇぇぇぇッ!?」
『いやぁぁぁぁっ! 来ないで、来ないで〜〜〜っ!?』
『このパターンそろそろどないかせなならんのちゃうかぁ!?』
 なにやら二口が訴えているが、濡れ女に耳を貸す余裕はない。どてどてと、広さだけは十分以上な台所を駆け回るが、美織はしつこく追撃してくる――笑顔に邪気がない故に、なんともいえない恐怖があった。
 シェーのポーズで固まっている美希をかわし、イノシシのごとく壁に沿って逃げる。再び廊下に戻ろうとしたところで、敷居につまづいて転んでしまった。
『うきょっ!?』
『どおっ!?』
『ぴーっ』
 濡れ女と二口、そして木霊の悲鳴がハモる。ていん、と床に投げ出された木霊を、美織が駆け寄ってにこにこと拾い上げた。
『ああっ、こ……木霊!』
「かぁいいね〜〜〜。よーかいさんの、お人形さん?」
『そっちが気に入っとったんかい……』
 コケたまま、ぐったりと脱力する濡れ女。
 そして、美希が怖々廊下を覗き込んだ瞬間――ずるっ、と床に沈み込み、そのまま飲みこまれるように消えてしまった。ひょいッ!? と奇怪な悲鳴をあげ、彼女はへなへなとその場にへたり込む。
「あ……朝っぱらから、久々に……! 何だって言うのよ、もぉ〜〜〜!?」
「これ、お人形さんじゃないやぁ……よーかいさん? おなまえは〜?」
『こ……こ、ひっ、こだ……あ、あぅ……!』
 取り残された形の木霊は、美織にしっかりと捕まえられ、カチコチと凝り固まっている。普段表に出てこない分、幼児パワーに慣れていないようだ。
 珍しくどたばたと騒がしい、八月上旬の朝だった。


 暗い暗い、澱んだような空気が溜まった闇は白々しい活気に満ちていて。
『お久しぶりねの大集合だ! 気合い入れていくぞ、ほい、番号ーッ!』
『いーち』
『にーい』
『さーん』
『うえぇぇぇん……』
『あれ。木霊……の、片割れ?』
『ど、どうして、泣いてる、のかな……?』
『てゆーか、いるの僕たちだけですか? ……減ったもんですねぇ』
『しゅ、集合が集合になってねぇじゃねーか……! 他の有象無象はどうしたぁ!?』
『いよいよやる気なくされたかな、こりゃ……』
『台詞も名前も出てこない感じの連中は、一応こっち側にいたんですけどねぇ。なんか、ぐんと寂しくなりましたね』
『で、でもみんな、割と問題、なさそう……』
『いったん、それを言っちゃあいけないよ』
『ふぇぇ〜……うぇぇぇ……』
『これじゃ作戦会議じゃなくて井戸端会議じゃねぇか……ふん、まぁいい。例の作戦はもう動いてるんだからな! 支障はねぇや!』
『えっ? ろくろ首、何かやってたんですか?』
『あったぼうよってか忘れてんなッ!? こんにゃろう……ええい、聞けてめーら! 俺ぁ気づいたんだ。こないだ、あの勇弘ってガキが風邪引いたときにな』
『風邪の……?』
『おうよ。二度目に引いたときゃ、すぐ治りやがったから手出しできなかったが……けど要は、弱り目を狙うってこった。俺はそれを探るため、フレ子を行かせた』
『なるほど……人間たちの弱点を知るってことですね?』
『それは、なかなかいい、かもしれない……』
『だろ〜? ちゃあんと頭を使ってるわけよ。彼を尻押し目押しすれば、百膳食ってなお甘辛く、だ!』
『それは意味わかりませんけど。でも、やってみる価値はありそうですね』
『それで木霊が泣いてんのかぁ……仕方ないやな。がんばってくれよ』
『うえぅ〜……ぐすっ……』
『人間どもの弱点を掴み、必ずこの屋敷から追い出してみせらぁ! なーなーで馴染まれてたまるかってんだ。ですよね、長!?』
『長!』
『そう、長!』
「……いや……あたし関係ないし。せっかく発言なく終わろうとしたのに、どうして振るのよ?」
『いやそんな無茶な』
『せっかく頑張ろうってんだから、応援なり何なりしてくだせぇよ!?』
『長なんだから! そろそろ空気読んでください!?』
「関係ないのに……。はいはい、がんばってねー」