孫子の兵法 3


 今日もまた、猛烈な日差しがあたり構わず降り注いでいる。
 夏がいよいよ盛りを迎えて、蝉も太陽も本領発揮というところである。雨が降ろうが晴れようが、暑いことにはもう変わりない。それ故か、すかーんとどこまでも晴れ渡った青空は、やけくそ気味な元気を誘引しないでもなかった――何事も、気の持ちようということなのだろう。
「そういうわけで、父さん、バイト変わったからな」
 手持ちの中で最も大きなカメラバッグを肩に掛け、正弘は満ち足りた気分で言った。
 さんさんと降り注ぐは太陽の光。彼が丹精込めて整えたヒイラギが、爽やかな空気に素晴らしく映えている。実に清々しい朝であった。
 目の前では、彼の息子――十七才になる山神勇弘が、大変微妙な表情で棒立ちしている。正弘としては、少々不満であった。自分がこんなによい気分なのだから、また自分と妻が力を合わせて、せっかくの男前に生んだ息子なのだから、もっとイイ笑顔を見せてくれてもバチは当たらないだろうに。
「どんなバイトか聞かないのか?」
「……あんまし聞きたくない」
 冷たいことを言うものである。一瞬落胆しかけたものの、ポジティブシンキングは得意技であるので、正弘は大まじめに頷いてみせた。
「うむ……息子よ、不安なのだな。わかるぞ。だが安心するんだ。お前の父は、たとえどんなことがあっても、どんなことをしてでも、ちゃんと家族を養っていくからな……!」
「確かにそれ関連も不安なんだけど……とりあえず、そういうことじゃなくて」
 なに? と小首を傾げる。
 勇弘はため息をつくように肩を落とし、父親のカメラバッグを指さした。
「なんで今更、そんなの持ち出してんの?」
「おお。そうだ、これなんだ。随分と埃を被らせてしまったが、ようやくまた使ってやれるんだよ! つまり今度のバイトはカメラ屋というわけだ。はっは、なんだ、結局内容を言ってしまったじゃないか」
 実に機嫌良く、バシバシと息子の肩を叩く。妖怪が写真に写らないとわかって以来、現像代節約のため大好きなカメラをタンスの奥に封印していたのだ。それの解禁は正弘にとって、ただただ純粋に嬉しいことなのである。
 しかし、一体何が不安なのか、勇弘は半眼でため息をついた。気取ったポーズでカメラを構える父に、受験に失敗した学生のような口調で言う。
「それで今朝、心おきなくばしゃばしゃ妖怪撮ってたのか……久々に襲われた、って母さん喚いてたのに」
「うむ。色々と現像方法を試してみようと思ってな。ひょっとして何か発見できたら、素晴らしいことになるじゃあないか」
「まぁ、今更父さんの選職感覚に何を言うつもりもないけどね……。それはそうと、ちょっと頼みがあるんだけど」
「頼み?」
 正弘はきょとんとした。薄いTシャツにGパンという、アルファベットは安物なのよ的貧乏人ファッションに身を包んだ勇弘は、まぁお金なんだけどね、と小さく呟いた。
 ふむ、と一度は納得しかけて、再び小首を傾げる。彼が何かをねだることなど、これまであまりなかったことだ――小遣いを所望したのは、ひょっとして人生初めてではないだろうか。
(しっかりした子に育ってくれたものだ……もっとも、そうならざるを得なかったんだろうが)
 この自若とした少年は、他人に頼ることを好かない性格である。誰かの手を煩わすことを避ける傾向にある、というべきだろうか。何かしら事に当たっては、自分の力だけでそれを解決しようとする。正弘が自立を説いたわけではないので、彼自身で判断を繰り返すうち、そういう風になってしまったのだろう。随分前からそうだった。
 幼き頃、一人で道に迷ったときは、倒れるほど歩き回って自力で家にたどり着いた。脱水症状一歩手前でぐったりしている彼は、警察署の前には行ったのだと話す。でも忙しそうだったから中には入れなかったんだ、という言葉を聞いて、正弘と美希は色々な意味で思わず涙してしまった。
 夏休みの宿題はすべて一人で片づけ、わからないところはあっさりヒントを見た。誰にも迷惑をかけないとみるや、それはそれは要領のいいものである――そしてそれでもわからない場合、地獄の悪鬼に強要されたかのような顔で助けを求めてきた。難問に回答するというよりは、砂漠の旅人に水を与えるような気分で手伝ったものだ。
 小学校高学年ほどになると、さすがにそういう極端なことはなくなった。だが、欲しい物があれば自分の小遣いで買う、高くて手が出ない場合じっと我慢して貯金する、などといったことを誰に言われなくてもやっていたところを思えば――その時点で既に、頑ななまでの独歩姿勢が彼の人格の基礎を成していたのだろう。
 何がその原因かはさておいて、
「ふ……不憫な子よのう……!」
「……な……な、なんだよっ、父さん……!?」
 ははらははらと涙をこぼしだした正弘に、勇弘はビクリとして後ずさった。お金が欲しい、という自分の発言から何を連想されてしまったものか、訝しんでいる様子である。悪い意味に取られやしなかっただろうか、と危惧しているようにも見えた。
 何でもないヨ、と首を横に振りつつ、正弘は先を促した。
「そ、それで……? 金が必要とは、何が欲しいんだね息子よ? こんな状況だが、遠慮することはない。何でも買ってやるとも、うん……!」
「勝手に浸られても困るけど……。まぁ、何買うかって聞かれたら、切符なんだけどさ」
「切符?」
「うん。交通費がほしいんだ。天樹市……までの」
 ややためらうように口にされた単語に、正弘はすぐ返事ができなかった。
 しばし頭の中で、また舌の上で言葉をもてあますように間を置いてから、呟く。
「……そうか。うむ、そうだな……いつ行ってくるんだ?」
「今日行こうと思ってるんだけど」
「なに、今からか?」
「うん」
 短い言葉で、意思の外側だけを撫でるように語る。そうか、と呟いて、正弘は財布を開けて中をまさぐった。
「ええと……むぅ。全部でいち、にい、さん……ここから天樹まではいくらだったかな?」
「わからないよ。ここから電車乗るの初めてだから」
「そうか。なら、全部持っていきなさい。足りないことはないだろう」
 ぽん、と財布をそのまま息子に放る。
 さすがに戸惑った様子ながらも反射的に受け取る彼に、正弘は微笑めいた表情を浮かべて言った。
「かなり時間がかかるだろうから、早く行って、早く帰ってくるんだぞ」
「わかった」
「……いや……いい。やっぱり時間は気にしないでいい、ゆっくりしてきなさい。お前もだいぶ久しぶりだろう。遅くなったら泊めてもらえ、連絡はいいから……電話とかないしな」
 予想外だったのか、勇弘はきょとんとしていた。問題ないぞ、という風に笑ってやると、小さく頷いて屋敷へ戻っていく。
 普段のテンションをどこやらへ押しやり、正弘はじっとその背を見送った――自分より身長が高くなったのは、果たしていつの頃だっただろうか。先程のような意味合いもあるが、本当によく育ってくれたものだ。やりたいことを満足にさせてやれない現状が、父親として実に歯がゆい。
 朝の光はなお関わりなく、ただただ明るく降り注いでいる。仕事に行かなければならない。今日から、そう、新しい職場なのだ。長らく待ち望んでいた、カメラ屋でのアルバイト。大いに楽しみにしていたことでもある。
 しかしどうにも、気が重かった。
「……お盆なら、一緒に行けもしたんだが」
 誰にともなく、独りごちる。もうすぐ盂蘭盆の精霊会。それを待たずに今日行くと言ったからには、それなりの考えがあるのだろう。自分が深く立ち入ることでは、ひょっとしてないのかもしれない。


 だけどもうやめてくれ、おじさんを写真に撮るのは!


 脳裏をよぎった声は揺れ、気分をさらに押し下げる。肩から提げたカメラバッグが、鉛でも詰まっているかのように重かった。
 このまま立ち尽くしているわけにもいかない――小さくため息をついて荷物を抱え直し、正弘は屋敷の門を開けた。すり減った靴底で路面をなぞるように、じりじりと道を進みはじめる。アルバイト初日の開始まで、あと小一時間ほど。早く出て店の掃除でもしようとやる気にみなぎっていたのだが、その余裕が少しだけ仇となっていた。どこでどう時間を潰すべきか、考えなければならない。
 随分久しぶりな――愛する妻に離婚を迫られた時のような、というとほんの一ヶ月前のことになってしまうが――暗澹たる気分を噛みしめながら、正弘はとぼとぼと歩いていった。せめて息子が征く道に、幸多からんことを祈りながら。