孫子の兵法 5


 さて。
 さらなる人間の弱点を求め、屋内に戻った二口濡れ女である。木霊は疲れてしまったのか、彼女のしっとりした頭の上で、くぴくぴと寝息を立てていた。元々音だけの妖怪――こだまこだまと跳ね返るのみだったのだから、無理もないことだ。
 広い座敷を覗いてみると、山神美希が一人で座っていた。テーブルに向かい、なにやらぶつぶつ呟いている。その手元には、きらきら光る小さな何かがいっぱいに散らばっていた。
 思わず目を丸くする。あれは一体何だろう?
「これと、これ……これは絶対売れる。これも、これも。これ……は、どうしよう。うぅ〜っ……」
 廊下の濡れ女に気づきもせず、悶々と懊悩しているようだ。
 背後からそっと近付いて、肩越しに覗き込んでみる――テーブルに散乱していたのは、色とりどりの薄っぺらい物体だった。丸いものが多いようだが、楕円形だったり四角めだったり、波打っていたりと様々である。美希の手によってひとつひとつ選定され、巾着袋に入れられてゆく。
 思わぬ宝物を見たような気分で、濡れ女はそのまま見入ってしまった。じゃらじゃらと気怠げにかき混ぜていた美希が、はぁ〜と深いため息をつく。
「ダメだわ……どの子も可愛すぎる。選ぶなんて無理よ……! アンティークは全部残そうかしら。でも、普通のボタンだけ売りに出しても、大した値段にはならないだろうし……」
『ボタン? これってボタンなのぉ?』
「そうよ、全部ボタン。これがシェルで、これが手彫りのウッド。こっちがエナメルのアンティークで、こっちが……え――うあひっ!?」
 ようやく振り向いて派手に驚き、彼女は逃げようと腰を浮かせた。ガンッと膝小僧がテーブルに激突し、ボタンがいくつか畳に転げ落ちる。
 本人はよろめくように横へ逃げ、カサカサとゴキブリのごとく後退した。
「んひいいいいいいいいいッ!?」
『……弱点はっけーん。この人はぁ、黙って後ろに立たれるとびっくりするぅ〜』
『そらまた役立つ弱点やな……今までで一番かものう』
『ううぅ、なんかこっちが情けなぁ――って、う、うわぁ〜っ!?』
 思わず叫んで後ずさる。
 ふっと落胆し、気を抜いたその一瞬で、目の前の美希が消え失せていた――いや。なにやらその場に、白い奇怪な物体がもこもこと転がっている。小刻みに震えて、ぶつぶつ呻いているようだ。反射的に耳を澄ます。
「……どっか行ってどっか行ってどっか行ってどっか行ってどっか行ってどっか――」
『うわっ。怖っ』
『人間て怖っ』
 ってあたしらが怖がってどーすんのよ、と自らにツッコみ、濡れ女はそろそろと座敷を離れた。これ以上刺激するのは、本当に怖い――それにしても、人間とは摩訶不思議である。くるまっているあれは布団の上掛けなのだろうが、どこにもそんなものは置いていなかったのに。持ち歩いているのだろうか?
 なんとなく中庭に出ようとしたところで、はたと思い出す。
『あ、そだ。鬼蜘蛛さんに人間の弱点を聞こうと思ってたんだっけ』
『……ヌレやん。ワシなぁ』
『うん?』
『ろくろ首もちゃらんぽらんや思うけど、鬼蜘蛛の言うことも正味好かんねん……あんまし、中途に頼るような真似はせんほうがええんとちゃうか』
 基本的に口数の少ない相棒がこんなにも喋るのは、なかなかに珍しいことだった。足を止め、眉根を寄せて聞き返す。
『中途……って? フッちんが鬼蜘蛛さんのこと好きじゃないのは知ってるけど……』
『あいつが直接どないやいうわけやない。理屈や。人間に関わろうとしよるやろ、あいつは。自分からな』
 そうだね、と頷いて振り返る。
 例の美希とかいう人間は、巻きシーツ状態を保ったままで、じりじりと廊下のほうへ這い進んでいた――弱点を探って屋敷から追い出す、という目的が先に立たなければ、自ずから関わりたいなどと思えるべくもない有様である。人間は怖い。
(でも、あのボタン……きれいだったなぁ)
 テーブルの上に放置されたままの、小さな宝物にちらりと目をやる。もう少しだけ、あのキラキラを眺めていたかった。
 甲高い声で、二口は続ける。
『怖がらせて追い返すんは反対せぇへん。人間がワシらのことをわからんままやからな。……ヌレやん、人間は、動物園ちゅうのんを作っとるいうて知っちょるか』
『どうぶつえん? 知らないよぉ』
『犬とか猫とか捕まえて、檻に入れて見せ物にしよるらしい。捕まってしもたんも逃げられへんのんも、人間に色々知られてしもたからや……ワシらはそないなったあかん』
『うへ〜……なにそれぇ。あ、でも、あたしたち檻なら抜けられるじゃない?』
『せやからや。坊主どもの張る結界が、ほんまにワシらを捕まえられる、なんちゅうことが人間の常識になってみ? 恐ろしいことんなるで』
『…………。そ……そう、だね』
 小さく呻いて、しばらく考え込む。
 キャピった印象の濡れ女だが、実はろくろ首などよりもよほど思慮深い性格なのだ。相棒の言わんとするところを汲み取って、つまりぃ、と口に出してみる。
『鬼蜘蛛さんが人間を知ろうとすることで、逆に人間も妖怪のことを知ってしまうんじゃないか……ってこと?』
『ちゅーか、山神の連中ははっきりそれを目的にしとるやろ。共存するためやーとか言うてな……ワシ、人間と一緒にすむんがそんなに嫌なわけやない。けど今言うたような不安がある。皆ただ追い出せ追い出せ言うてるけど、どっかでそない感じとる連中も少なないんちゃうか』
『うん……けどぉ……』
 言いよどみ、中庭に目を移す。
 茫漠とした未知の部分を恐れ、人間を追い出そうとする他の妖怪たちよりも、二口の考えはいくぶん現実的なようだった――動物園に犬猫がいるわけもないが。それはともかく、現実的ということはつまり、人間側の道理にも則しているということに他ならない。
 濡れ女と、まさに一心同体。常に共にある彼がいつからそんな情報を得、かような考えをもつに至ったのか。それにも興味はあったが、彼女はまず、縁側の下をひょいっと覗き込んだ。
『長はぁ、どう思います?』
 剥き出しの地面に寝転んだ少女が、眠たげな半眼だけを動かして見上げる。
 ピンク色の洋服を着て、茶色い髪を緩く波打たせた女の子。完膚無きまでに場違いだが、なにも違和感はない。なにも不思議はない。彼女はそこに居るべくして居て、そしてただそれだけの存在なのである。
 だから、
「ちょっと面白いわね」
 と答えたその少女――長に対して、濡れ女はきょとんとしてしまった。例によって例のごとく『どうでもいいわよ』とだけ返されると思っていたし、ある意味それを期待していた。彼女が面白いと口にするなど、随分久しぶりに聞いた気がする。
 やはり驚いたのだろう、二口がおそるおそる聞き返す。
『お、おもろい……ちゅうんは?』
「その動物園っていうの。どういうのなのかしら。見てみたいわ」
『…………』
 論点が斜めにずれている。
 微妙に肩をコケさせていると、少女はのそのそと縁の下から這い出してきた。
『おさー』
 目を覚ましたらしい木霊が、ぴょんと跳ねて彼女にとびついた。洋服の袖にしがみつき、ことさらに嬉しそうな笑顔を浮かべる。
 無表情にそれを一瞥してから、長は濡れ女に視線を戻した。
「あんたたちの考えてることに興味はないけど。それが支配なのかどうなのか、っていうのは少し知りたいわ」
『……支配……?』
「どうでもいいけどね。でも、折谷戸はともかく、あんたたちが言ってることって、結局は――」
 ふ、と言葉を切り、少女は遠くを見やった。
 ずっと、ずっと遠く。
 その瞳は空を映し、雲をなぞって、辿れないはずの何かの軌跡をゆっくりと探っているようであった。変化があまりに唐突で、またそれが奇妙な自然さを併せ持ち、続きを促すこともできない。木霊だけはまったくマイペースに、よじよじと長の肩を目指して袖口を登っているようだったが。
 黙って見ていると、長は小さく呟いた。
「降りてくるかも」
『え?』
「随分久しぶり……何の用かしらね。また出席の催促だったら、やれやれだけど」
 ため息でもつきそうな様子で――実際のところ、彼女がそんな感情的なリアクションを見せることはないが――少女は空から視線を戻した。ぽかんとしているフレ子を見、わずかに声に抑揚を生む。
「迷惑をかけるわね」
『……長?』
 怪訝な呟きに応えることなく、長の姿は消え失せていた。
 縁の下に目をやるが、そこに戻ったわけではないらしく、いない。話しかけたのはこちらであるのに、まったく一方的に言い募られ、かつ不完全燃焼に終わられてしまった。
 小首を傾げ、不満げに呟く。
『何だったのかなぁ……? 答えてもらえたような気がしないよぅ』
『降りてくる、ちゅーて……何がや』
『知らなぁい……あっ。木霊、連れてかれちゃったね』
 長の肩に乗っかったまま、一緒にどこかへ消えてしまったのである。これではろくろ首と連絡が取れない。
 同じ屋敷の中なのだから、別に大した問題ではないのだが――しかしなんとなく、元々あんまりなかったやる気がきっぱりなくなってくれそうな気はした。潮時ということなのかもしれない。