孫子の兵法 6


 だが、長が何を言おうとしていたのかも気になった。空を見上げて、降りてくる、とは。
 普段はほとんど喋らないのに、いざ口を開けばミステリアス――相変わらず、つかめない少女である。
『まぁとにかく、他に気になることもできたからぁ』
 くるっと踵を返し、濡れ女は縁側の端にあるドアに向かった。
『そこら辺もまとめて、鬼蜘蛛さんに聞いてみよっと』
『結局聞くんかい!』
『いいじゃ〜ん。だってほんとにわかんないんだもん。それに、ろくろ首にも言ったけど、人間を相手にするよりはさぁ』
 するりん、とドアをすり抜ける。
『同じ妖怪と話するほうが、そりゃあ全然……ま……』
 言葉尻がすぼみ、足が止まる。
 大きな部屋――たくさんの本が並ぶ書斎の中にいた小さな人間が振り返り、清々しいほど底の抜けた笑みを浮かべて、真っ直ぐに濡れ女を指さした。
「あーっ」
『ひぃぃぃぃぃ二回目ぇ〜〜〜っ!?』
 震えて叫び、迷いなく身を反転。しかし、相手の迅速さはそれを凌いでいた。
 がくんっ、と首が真後ろへ引っ張られる。ドアに片足だけ突っ込んだ微妙な体勢で振り向くと、天敵――山神美織が、今朝も見た満面の笑みを浮かべて彼女の髪を掴んでいた。
「ぬれてるよーかいさんだ〜! こんにちはっ!」
 どうしてこの子供は、妖怪と見るとこう節操なく絡んでくるのだろう? まったくもっていい迷惑である。いつも周囲を取り巻いている、妖鳥以津真天の姿が今は見えない――だから暇なのだろうか。
「よーかいさん、ええとね、あのね〜」
『ちょ、や、やめ……はなして、うぇぇぇはなしてよぉ〜〜〜!?』
『ぬかったわ……このガキが』
 二口が舌打ちし、濡れた髪が動く。いきなりぶわっと量を増して美織に巻き付き、高々と空中に差し上げてしまった。
 不気味な、というかなかなかに危機的なビジュアルである――のだが。
「うきょ〜〜〜っ! きゃ〜っはっはっはっはっ!」
『……。あかん……どないもならん』
『なんで……? ほんとになんで? すっごく意味わかんない。ほんとにあのオバさんの娘なのぉ……?』
 どやろなぁ、と首を捻る二人に、美織は空中で両足をぷらぷらさせつつ言った。
「あのね、あのねー。クモさんしらない?」
『は。……くも? お、鬼蜘蛛さんのこと?』
「そー、オニグモさん! ミオね、ご本を返しにきたんだけど。いないの」
 逃げ腰になりながらも、部屋の中を見回してみる。
 壁際をずらりと埋め尽くす、真っ黒い本棚。相変わらず凄まじい量の書籍が整然と並べられているが、濡れ女にはいまいちその価値がわからない。角のない字なら大体読めるのだが、こうまでコレクションする鬼蜘蛛の気が知れなかった。ろくろ首がいたら、人間かぶれの一言で済ませてしまうのだろうけれども。
 ともあれ確かに、こうまで騒げば出てくるはずの和服美人は、いつまで経っても現れる気配がなかった。
『……ほんまにおらんようやな』
『どうなんだろ……? おーい、誰か〜! 誰もいないのぉ〜?』
『そんなわけはございませんことよ』
 ころころっ、と幼げな声が響く。
 見ると、部屋の隅に人影が出現していた――黒い着物に、暗い帯。そこまでは例の人物と同様だが、サイズがやたらとミニマムである。美織ほどしかないだろう背丈に、かわいらしいおかっぱ頭。細く鋭い目をした少女が、どこかツンとした表情でこちらを見ているのだ。
 あれ、と呟く濡れ女。
『小沙蜘蛛(ささぐも)……あんたが出てくるってことは、やっぱり鬼蜘蛛さん、いないんだ?』
『左様ですとも? 姐様はお出掛けになっております。わたくすが留守を預かっておりますのですわ』
 てとてとと数歩前へ出て、悠然と見上げてくる。
 奇妙な貫禄めいたものを漂わせるその少女から、濡れ女はわずかに視線を外した。愛想笑いのような表情を浮かべてみたりもする。
『あぁ〜、そうなんだぁ。それは残念〜……ちょっと聞きたいことがあったんだけどぉ』
『しゃーあらん。帰ろ帰ろ』
『聞きたいこと……? ふ。それはそれは、都合のよいこと』
 さも小馬鹿にしたように、小沙蜘蛛は小さく鼻を鳴らした。随分身長差があるにも関わらず、くいっと片眉をあげた表情は明らかに見下している。
『姐様のお客様を宙吊りにして、よくもまぁ。もしここに姐様がいらっしゃったら、あなたがたきっと、八つ裂きですわね?』
『う。……な、なによぉ』
 濡れ女は、相棒と顔を見合わせ――ることはできないが、それっぽい雰囲気を醸し出した後、するすると美織を床まで降ろした。う〜? とむしろ残念そうにしている彼女からそそくさと離れ、壊れたソファを盾にして回り込む。
 背にする格好になった小沙蜘蛛が、ほほほほと癇に障る笑い声を上げた。
『あらあら、まぁ〜なんとも惨めなことですわね。おっほほほほほほ』
『……おんどれ』
『相変わらず、嫌味な子だねぇ……あんたは人間、怖くないの?』
 怖い? とわざとらしく聞き返す。
 しばらく間をおいてから、小沙蜘蛛は――わざわざ濡れ女の前に回り込み、口元に片手をやって「ぷっ」と吹き出した。
『何をバカなことおっしゃるの……? あなた方と一緒になさらないで。わたくすたち折谷戸の一族は、学も識も歴史もある、由緒正しい妖怪なんですからね。ましてや、こんな小さな子供になんて……バカバカしいにも程がありますわ』
『……ムカつくぅ』
『腹立つな……』
『それはこちらの台詞。姐様のこの、慎ましすぎる領地内に勝手に立ち入られるだけでも不愉快ですのに……! ともかく! 姐様は今おりませんの。わかったらとっとと出ていってくださる?』
 ムカつくムカつくーと連呼するフレ子を放置して、彼女は美織に向き直った。
『それで。あなたは、どんな御用でしたかしら?』
「えと……んと。あっ、これ、このご本!」
 床に落としていたらしい絵本を拾い上げ、にっこりと差し出す。
『あら。そうでしたわね。はい、確かに姐様にお返ししておきますわ』
 同じくにっこりと笑顔を作る小沙蜘蛛。
 不機嫌に唇を突き出しながらも、濡れ女は一歩も二歩も退いた位置からそのやりとりを眺めた。何か言ってやりたいが、それでまた人間に興味を向けられては困る。
 小沙蜘蛛は、鬼蜘蛛の眷属としてこの部屋に棲まう妖怪である。
 彼女だけではない。この広い書斎のどこかには、彼女らの仲間である大勢の蜘蛛がひしめいているのだ――正確な数は知らないが、百や二百ではないだろう。無論そのすべてが妖怪というわけではなく、普通の蜘蛛が大多数である。人の姿をとって表にまで出てくるのは、鬼蜘蛛の他この小沙蜘蛛が多い。
 つまり、それだけでなんとなく苦手な相手なのだった。おまけに鬼蜘蛛と違って態度にトゲが多く、事がなかなか穏便に済まない。この屋敷に棲む妖怪の中で――そう、すべてが特別なこの屋敷において――ほとんど唯一、テリトリーについての意識が強いのも嫌な特徴だった。
『まぁ、もともと妖怪ってそういうものなんだけどねぇ……あたしもそうだったし』
『ちゅーても、こいつはなぁ……どうにも、なんとも……』
 二口もぶつぶつとこぼしている。
 まぁまぁ、となだめにかかろうとして、ふと濡れ女は言葉を切った。小沙蜘蛛を見る――美織から絵本を受け取ろうと両手を伸ばしているようだが、うまく届いていない。というか、明らかに立ち位置が離れすぎている。
 美織もいささか不思議に思ったらしく、本を差し出したままこっくり首を傾げた。
 それに対し、どこかしら汗ばんだ様子で、小沙蜘蛛はただにっこりと笑顔を深める。
 こっくり。にっこり。
 こっくり。にっこり。
 焦れたのか、美織が手渡そうと一歩踏み出した。
 同時、膝も曲げずに小沙蜘蛛がその場を跳びのき、同じだけの距離をあける――物理法則を鼻で笑っている、というのは妖怪にとって今更に過ぎる。つまり問題は、そんなことではない。
『……さーさぐーもちゃ〜ん?』
 その頃にはもう、濡れ女も二口も、大体の内情を理解してしまえたわけである。ツッコみ待ちとしか思えない、しかし自然なむっつり顔で、小沙蜘蛛が振り返る。
『なんですか? 早く出ていってくださいな』
『なんやとコラ、デカい口叩くな!』
『あんただって怖がってるじゃん! 全然人のこと言えないでしょぉ〜!?』
 喧々囂々まくしたてる。
 怖がって……? と小首を傾げるチビ蜘蛛に、美織がまた一歩近付いた。やはりぴょいん、と即座に跳び退り、間合いを広げてしまう彼女。