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孫子の兵法 7
ほらぁ〜! と濡れ女が騒ぎたてると、小沙蜘蛛はようやく足元に目をやった。しばし無言のまま、何やら考え込む――やがて突然、雷に打たれたかのように顔面をひきつらせ、両手で頬を挟んでありったけの驚愕を表した。 『そっ……そ、な、なんですか!? なんですか。わ、わたくすは……! わたくすは、姐様の教えを受けて、人間ごとき平気の平左のはず……!?』 『……この子、思ったほどあんまり賢くないね〜』 『はっきり言うちゃれ。アホやて』 『ば、バカをおっしゃい!? こんな……何かの間違いで、ひ、ひいぃッ!?』 いつの間にやら再接近していた美織に、今度は大きく跳び上がる。手足を広げて本棚にとりつき、カサカサと天井近くへ逃げ出した。 反応が素直すぎて笑えもしない濡れ女に、なんだか精一杯な感バリバリでのたまう。 『ほ……ほ、ほほほ。どうです、この跳躍力』 『何言うとんねん』 『うふふ、ほんとは人間が怖いんでしょ〜? 眷属だからって、鬼蜘蛛さんと同じとは限らないもんねー! ほれほれ、何とか言いなさいよぉ〜』 『この怖がりがー』 やいのやいのとはやしたてる。一人に見えても二人なのであるから、非常に奇妙な威圧感である。お黙りなさいだの、間違いですわだのと抗弁していた小沙蜘蛛も、徐々に押されて口惜しげに呻きはじめた。 『人間など、に、人間など決してっ……姐様は、妖怪として興味をもつべき必ずの存在だとおっしゃいましたわ! 姐様はいつも正しいのです!』 『じゃあなんで逃げるのよぉ〜? 怖くないんでしょー』 『……逃げた〜て言うてまうで。鬼蜘蛛に』 ふと意地の悪いことを思いついたらしい二口の言葉に、ひッ、とわかりやすく息を呑む。見かけ通りの幼さといおうか、実に単純なリアクションである。 『そ……そ、それは、それだけはやめて!? 姐様に言うのだけはいけませんッ!』 『いけません、って。んふふふふ、怒られるのが怖いんだぁ? 言っちゃうよ〜♪』 『口塞ぐちゅーても、ふたつあるさかいなぁ』 『う、うぅ……わ、わたくすは。そげ、そんなっ……!』 『案外可愛いとこあるんじゃーん。ほら〜ぁ、降りてこないと言っちゃうよ〜っ?』 『大目玉やな。灯籠刺しの刑やで、ひへへ』 『あううぅ……う、うく、うううぅぅぅぅ〜〜〜んぎゃんごとぉッ!』 ぶわーと涙を溢れさせ、小沙蜘蛛はついに甲高く―― 『わたくすがっ! かんわたくすが、人間やなんやおぞかるわけやあらん! 姐様ねえのすーて、す、す、すりゃよろしがねっ! 何だいえけんごとあらんがー!』 なんだかものすごいことになって、叫んだ。 いきなりのことに唖然とする濡れ女たちを見下ろして、蜘蛛というよりはまるで子犬のように、必死の表情で吠えたてる。 『おーねがおまはんらや、お、おまはんらやなんやにどげこげ言われる筋合いはねぇ! わらがじんどオゾゾがついとっただねが! はやー出てけ! 出てけぇ〜〜〜!』 『な……な、何言ってるのか、わかんないよぅ……!?』 『……鬼蜘蛛にチクるならやったらんかい、おどれらのが怖がっとったやろ、はよ出てけー……みたいな意味やな。松江の言葉やろ』 二口が冷静に通訳する。 松江とは、現在の島根県松江市。古くから栄えた都市であり、奈良時代には国庁や国分寺などが置かれていたことは基本的にどうでもいいが、ともかく出雲の中心地である。小沙蜘蛛はそこの言葉、つまり出雲弁か何かでわめきたてているのだろう。 正しいかどうかもわからない特異的な単語や発音を、即座に理解し解説するとは――幼い声色と裏腹に、二口、なかなかの博識である。しかし、出雲弁を訳してまた関西弁というのはいかがなものだろうか。 『二重人格って、蜘蛛の流行りなのかな……?』 『まぁこいつの場合、人格は変わってへんようやが』 『もともと泣き虫だったんだぁ。うふふ、ますます可愛げが……あ、あれっ?』 ふと気づくと、人間の子供がいない。 美織はいつの間にか部屋を回り込み、勝手に本棚を漁っていた。随分静かだとは思っていたが、絵本を何冊も床の上に並べ、おーだのあーだのと感嘆している。 あっ! と小沙蜘蛛が焦り、本棚から飛び降りた。てけてけと、必死であることだけは伝わってくる有様で、美織の周囲一メートルを走り回る。直接どうこうする勇気まではないらしい。 『こ、こっさくね姐様の本、さんごさらすな! そぎゃんごと、そ、そぎゃんごと――』 「ねー!」 極めて明るい声と笑顔が返り、ぬっと一冊の絵本が突き出された。 「次はこれかして! これ!」 『……は?』 「これ! よみたいの」 妖怪全員の目が点になる。どうやら、彼女らのいざこざなど気にもしないで、次に読みたい絵本を物色していたらしい。いくら適当な出雲弁が意味不明とはいえ、マイペースにも程がある。 一瞬、ぽかんと口を開けた小沙蜘蛛だったが――美織の底の抜けた笑顔が、様々な意味でマジであることを悟ったらしく、ぶるぶると激しく首を横に振った。 『え、えけん、そぎゃんごたえけん! 姐様のろしねそぎゃんこっさくな……!』 「これね〜、おもしろいんだよ! いっすんボーイがね、ハリノ剣をもってね、うちでの……なんか、さがしにいくの。いっしょによもう?」 『だ、だだけん、姐様の……姐様の、うぅ〜っ……!』 「だだ? だだけん、あはははは、だだけーん! だだけ〜んだだけ〜ん!」 『……普通に喋んないと、伝わらないんじゃない?』 『会話になっとらんな』 口々に言う濡れフレコンビ。また小沙蜘蛛の目に涙がにじむ。小首を傾げる美織に、彼女はハヒハヒと空気を吸い込んで、 『ね……姐様のお許しなく、大切なご本を持ち出すなど。ダメです、絶対許しません! そもそも――』 「えぇー? ダメなの?」 『だ、ダメです!』 「そっか〜……じゃ、いいや」 は? とまた意表をつかれて動きを止める。 美織は残念そうに絵本を閉じ、床に広げていた物と合わせて本棚に押し込んだ。そこで何やら思いついたように振り返り、きょとんとしている小沙蜘蛛に言う。 「ここでよむのなら、いーぃ?」 『……う。……ま、まぁ』 にひっ、と大きな笑みを浮かべ、その場にぺたりと座り込む。仕舞ったばかりの絵本を取り出して、じりじりと文字を追いはじめた――無邪気というより、計りようのない無作為を感じる。本当にただ一貫して、絵本が読みたかっただけなのだろう。 しばらくの間、ぼけ〜っとそれを眺めていたが。濡れ女のほうを振り向き、小沙蜘蛛は呟いた。 『……わけがわかりませんことですわね』 『うん……まぁ、割といっつもこんな感じなんだけどさ。あんまし出てこないもんねぇ、あんたも鬼蜘蛛さんも』 『ね、姐様は、思うところあってのことですわ! 誰よりも人間のことを理解しておられますもの。決してあなたがたのようなくだらない理由では!』 『あんなけビビっといて、よー言うわ……』 『あ、そうだ。鬼蜘蛛さんといえばぁ、聞きたいことがあったんだっけぇ』 仏頂面からさらに唇をひん曲げ、言ってごらんなさいな、と小沙蜘蛛は促した。相変わらずの態度だが、もうどうでもよくなってきたのだろう。 濡れ女は、先程中庭で見た長の言葉を、忠実に――間延びした口調で――再現してみせた。 『それでいきなり、「降りてくるかも」とかなんとか言ってたんだけどぉ。なんのことかわかる?』 『迷惑がどうとか言うとったな』 『…………。ほほ……ほほほほほ』 突然いやらしく笑い、小沙蜘蛛は手の甲で口元を隠した。呆れたような、優越感を思い出したような、気取った表情で見上げてくる。 『まぁ、鈍い……そんなこともわからないの? 一体何十年、ここにお棲まいになっているのかしら』 『む。またそういうこと言う〜』 『ワシら言うほど長ないわい』 『あら、左様でしたかしら? ならばわたくすは先輩ですわ。礼儀がなっておりませんわね……ともあれ。またろくろ首が騒ぎますわよ』 ろくろ首が? と小首を傾げる。 小石のような蜘蛛、という意味合いをもつその少女は、己が名に到底ふさわしくはない、大きな態度でふんぞり返った。濡れ女が不思議そうな顔をするのが、余程小気味いいらしい。 『十中八九、間違いございませんわ。わたくすには確信がございます……まぁもっとも、あなたがたのような凡庸な妖怪には知りようもないことですわね? 失礼致しましたわ。それでは、ご機嫌よう』 するっ、と何かを伝うように跳び、天井裏に引っ込んでゆく。 ぽかんとしていると、まばたきするほどの間に再び顔を出し、美織に向かってまた精一杯に叫んだ。 『ね、姐様の大事な大事な御蔵書、散らかしたままにしておいたら承知しませんからねっ!?』 う〜ん、というおざなりな返事すら聞かず、姿を消してしまう――どうやら、本格的に人間が怖いらしい。奇妙な親近感を覚えて、しかし濡れ女はため息をついた。 『はー。疲れるぅ〜……これだから蜘蛛は慣れないんだよね。えらそ〜なんだからもぅ……』 『鬼蜘蛛とどっちがええ?』 『さぁ。得体が知れてるぶん、小沙のがまだマシなのかもね〜……それはそうと、この子、どーするの?』 絵本に熱中している美織を指さし、しばし二人で困ってみる。構わなければならない道理もないし、どちらかといえば全力で遠慮したいところなのだが――はたと、当初の目的を思い出した。 もとはといえば自分は、人間の弱点を探るべく、この最前線ともいえる敵地に踏み込んできたのである。そして目の前の子供は、間違いなく最強に近い敵のはずだった。つまりこれは、いわゆる好機なのかもしれない。 |