孫子の兵法 8


『う……うぅ〜〜〜……!』
 しかし喉からは呻きが漏れる。
 小沙蜘蛛ほどしかない後ろ姿が、どうしようもなくプレッシャーだった。なぜ相手が人間というだけで、こうまで恐ろしいのだろう? そもそも自分たちは、どうして人間を怖がっているのだろうか――二口の言うように、知られるのが怖いからか? 確かに説得力はあるが、しかし本音を言えばよくわからない。
 鬼蜘蛛なら知っているのだろうか。
『ヌレやん?』
『……う、うん。え〜っと……え〜〜〜っと……! みっ、みみ、みおりぃ!』
 勢い余って呼び捨てになる。
 突然呼ばれてさすがに驚いたのか、美織はパッと振り返った。くりくり目玉をまたたいて、一瞬後、嬉しげににっこりする。
「なーにっ?」
『う』
 勢い及ばず言葉に詰まる。
 なぜ笑うのか、わからなかった――呼んだだけなのに、どうしてだ。何を考えている。跳びかかってきたらどうしよう? いや違う、そんなことより訊かなければ。あれれ、何を訊くんだったっけ?
 テンパれる限りテンパった末、はたと思いついて叫ぶように問う。
『あ、あんたのぉ……あんたの、嫌いなものは何っ!?』
「エンドウ豆!」
 濡れ女はその場にずるコケた。
 爽快に的外れな即答である。質問が抽象的すぎたのだろうか? というか、豆が嫌いとは何事か。
「エンドウ豆はね、口の中できゅっきゅってなるの。他のお豆さんはだいじょーぶだよ。あと、ピーマンは人間のたべるものじゃない、ってだれかがテレビで言ってた!」
『ああ、そう……。テレビデ、って何……?』
『わからん。つかヌレやん、モロすぎや』
 そうだよね、としょんぼりする。
 お前の弱点は何なのだ、などと普通は妖怪にでも訊いたりはしない。この子供の脳天気な面を見ていると、なんとかなるかな、という安直な気分が怖さに先立ってしまったようだ――単に、色々考えを巡らす余裕がなかっただけかもしれないが。
 やっぱ絵本を読み切らないうちに撤退ということで、とひそひそ決定し、彼女は踵を返した。どこかから小沙蜘蛛が見ている気配を感じる。少々癪に障るが、人間が苦手なのは向こうも同じである。というか、あれだけ露骨に怖がっておいて、よくも最後まで威張れたものだ。
 にょ、と玄関側の壁に半身を突っ込み、そこではたと思い出す。
 適当極まりないこの計画の最初に、ろくろ首は確か言っていた。


 ――あのガキは確かに厄介だけどよ、なぁーんも考えてねぇから、実は一番御し易いと思うぜ。行動の予測は全っ然できねぇが、俺ぁあいつから風邪のことを聞き出したんだ。


 ちゃらんぽらん妖怪の言うことである。鵜呑みにしているわけではない。
 だが確かに、その感覚も理解できた。直情的で躊躇がないということは、正面切るのが一番やりやすいということに他ならないだろう。当然、こちらも正面を向けねばならないことになるのだが。
 いや。今のこの場合、つまり訊くだけなら。
『あ……あの〜……』
 本棚の間から首を出すような具合で、彼女は美織に呼びかけた。
 逃げ腰どころか逃げ全身である。だが大丈夫。もともと、隠れて人間たちの行動を観察する目的だったのだ。それを思えば、随分とアクティブなものではないか。
 美織は振り返らず、ん〜と生返事を返した。ほっとすると同時に不安になる。果たして、ちゃんと答えてくれるだろうか?
『こ、怖いものとかは……ないのかなぁ? たとえばその、む、虫とかぁ。母親のほうはよく悲鳴あげてるし……あっ、よ、妖怪とかでも、いいんだよぉ……?』
『ヌレやん……無理すな……』
「こわいもの〜……?」
 ぱたりと絵本を置いて振り向き、彼女はなにやら考え込んだ。やや壁に引っ込むと同時にほっとする――よかった、思いのほかちゃんと答えてくれそうだ。できればこのまま平和裡に終わりたい。
 しばしの後、美織は小さな声で、しかしきっぱりと言った。
「怒ったお兄ちゃん」
『…………』
 よりにもよって人間である。一番どうしようもないではないか。
 無言のまま本棚に引っ込み、壁をすり抜けて玄関に立つ。なぜかそこには木霊ペアがいて、人間の靴に入って遊んでいた。お気楽な嬌声が、その名の通りこだましている。
 ぼんやりとそれを眺めつつ、濡れ女は深いため息をついた。
『……前途多難、だねぇ』
『ほんまに』
『ほんまに?』
『ほんまに!』
 木霊の反復も実にむなしく、ため息すらもかき消してくれない。
 見えない空は夕暮れのようで、遠いカラスの鳴き声が、たっぷりと哀愁を誘ってくれた。



 その夜のこと。
「ないっ!?」
 ごちゃーん、がしゃしゃーん、と物をひっくり返し、暴れ回りながら山神美希が吠えた。
 なにやら必死の形相で、台所と座敷を行ったり来たりしている。
「ない! ないない。ないないないないない、ないわッ!?」
「どうしたんだ……? なにかあったのかね」
 風呂上がりの正弘は、娘の髪をかしかしとタオルで拭いてやりながら、不思議そうに妻を眺めた。焦りを涙で固めたような答えが、すぐさま返ってくる。
「ない、いいえないからあったのよ! ないの、あるの、ないのっ!」
「ないのー!」
「落ち着け。美織も静かにしなさい。何がないんだね?」
「財布よ!!」
 ほとんど絶叫に近い言葉に、正弘も手を止める。
 ハンドバッグをひっくり返し、なけなしの化粧品をバラバラやりながら、美希は焦燥感もあらわに続けた。
「財布がないの! 見当たらないの。全財産の九割が入った財布よ!? どうなってるの一体! 誰がどこへやったの〜!?」
「そ……それは確かに一大事だ。美織、早くパジャマを着なさい。一緒に財布を捜すぞ!」
「わ〜い! かくれんぼだぁ!」
 途端に笑顔でとびはねる美織。相変わらず、思考全体が根本あたりからズレている。
 自分の禿頭を適当に拭きながら、妻に倣って屋敷を駆け回る――とはいえ、財布をなくしそうな場所といえば、それこそ台所と和室くらいしか思い当たらないのだが。
「書斎にはなかったぞ。お前、ポケットに入れてたりしないのか?」
「しないわよっ! 失礼ね。ああもう、ほんとにドコ行っちゃったのかしら! あなたの財布は? ある?」
「あ、ああ……わたしのは、ユウが持っていったよ。だからまぁ、無事といえば無事だな」
 そう、とだけ答え、美希はまた台所へ走っていった。
 久方ぶりに息子が外泊していることを、彼女はむしろ良かったと受け止めているようだ。それはたとえ、どんな想いがそこに付随したとしても、きっと変わらないのだろう。本当に善き母である。
 ともあれ、財布はどこへいってしまったのだろう? まさかとは思うが、盗まれでもしていたら事である。なにせ本当にギリギリの生活だ、一気に窮地に陥ってしまう。
「う〜〜〜む。他にあるとすれば、洗濯物の中とか……お?」
 首を捻る正弘の前を横切って、美織が縁側へ出ていった。夜闇に包まれた庭に向かって、ぱちぱちと数度手を叩く。
「いーつまーでさ〜ん。ねーこーちゃ〜ん」
『イツマデ〜』
『イツマデイツマデ〜』
 呼び声に応え、数羽の人面鳥がどこからともなく舞い降りてきた。植え込みの影から黒猫も顔を出し、とてとてと近付いてくる。
 びしゃーん、と雷に打たれたかのごときリアクションで、正弘は驚愕した。ムンクのごとく両手で顔を挟み、意味もなくガニ股で後ずさる。
「む、娘よっ……!? いつの間にそこまで妖怪を。父は嬉しいぞ! 同時に羨ましいぞすごく!?」
「えへへ〜。さぁ、みんないっしょにおサイフをさがそうね〜!」
 ごろごろと足元にすり寄ってくる猫――尻尾が二本ある猫叉の背を、なんら臆することなくなでなでする美織。そういえば以前にも、妖鳥を操って勇弘を追い回していたような。間違いなく、一家でもっとも妖怪に受け入れられている彼女である。