第一話−3


 しばらく彼女らは立ったまま、静かで苛立たしい時間を過ごした。
「ああ、でもさァ。ねぇ」
「……なに?」
 振り返る。突然呟いたフィリガルは、どこかぼんやりとした視線を玉座ではなく、その周辺の床に注ぎながら、
「これってさ、ひょっとしたら――」
「謁見! 謁見!」
 言いかけた言葉を、新たな声が遮る。広間の巨大な扉が開き、長大な槍を手にしたラノーが一人、ぴしりと背筋を伸ばして声高に言った。
「宮中調理師、リック=ハルーカイン殿が参りました!」
 宮中調理師?
 レイリーがわずかに眉根を寄せると同時、王の侍従が「通せ」と答えた。警衛兵が扉の向こうに消え、入れ違いに一人の青年が入ってくる。
 宮中調理師とは、文字通り宮殿の調理人のことである。ルーディアでは、リルクアナ城のことを『フェルギオラの宮殿』と称することが多いため、よくそう呼ばれるが、つまりは城の専属料理人ということだ。それはレイリーたち、宮中菓子職人にも当てはまることではあるのだが、
(ルーディアに、あたしたち以外の宮中菓子職人はいない。だからあたしたちは、王国菓子職人……にしても、どうして調理師がこんなところに?)
 宮中調理師の数は多い。王族はもちろん、城に住み込みの高級文武官、夜通し働く警衛兵たちの食事まで幅広く賄わなければならないのだから当然だ。レイリーたちが来るまでは、彼らがデザートなどの菓子を含めた全てを担当していたことも理由のひとつであり、その組織構造は、昨年正式採用されたばかりのレイリーら宮中菓子職人とは比べ物にならないほど大きく強固である。
 それらの知識を踏まえて、レイリーは歩いてくる男を観察した。
 ラノーの身に着ける、紫の落ち着いたデザインの軍服にどこか似たシルエットをもつ、上から下まで真っ白ずくめの制服――調理服を、その男は身に着けていた。短く揃えられた金色の髪は、レイリーのそれよりややくすんだような色合い。やがて近くまで歩いてくると、そのなかなか端正な造作の顔と、黒い瞳も確認できた。
 彼女は眉根を寄せた。見たこともない男だ。
(新入りの宮中調理師? いやでも、こんな時期に……それに、そうだとするとますます変ね)
 宮中調理師の数は多いが、菓子職人との間柄は密である。宮中のメニューを話し合ったりもしなければならないので当たり前だが、レイリーは調理師全員の顔と名前、少なくとも顔は知っているつもりだった――マイクやフィリガルと連れ立って旅に出る、一ヶ月前に宮中にいた者ならば。しかし、今歩いてきた彼のことは、知らない。
 大体、調理服姿で謁見の間にやってくる、ということも普通なら有り得ないのだ。それができるのは、レイリーたちとも顔なじみである調理師長か、他数名に限られる。その『他数名』に入っているレイリーたちですら、今は正装して臨んでいるというのに。ただのぽっと出の新人に、そんなことが許されるはずはなかった。
「……なんか、ヤな感じ」
 と、フィリガルが呟いたのも、彼女と同じことを思ったが故だろう。ひたすら余計な一言ではあったため、さりげなく足を蹴って黙らせたが。
 ともあれ。調理服姿のその青年は、ゆっくりとレイリーたちの隣まで歩いてくると、ぺこりと王に一礼した。レイリーも、視線を戻して姿勢も正す。ドルナダ王は鷹揚に頷き、片手で青年を示して、
「ホイロッサ。それにロイケン、メルロイド。余が紹介しよう。
 彼は、お前たちが留守の間、臨時の菓子職人として夕餉のデザートを供してくれた、リック=ハルーカイン宮中調理師だ」
 レイリーは『どきん』とした。
 背筋にとても嫌な、好ましくない震えが走った。自然、視線が横を向いてその男を見る。自分たちがいない間、この城で菓子を作っていたという男の横顔を。
(……まさか)
 と思ったのは、あるいは自分の考えを否定する、最後の見苦しいあがきだったのかもしれない。まさかそんなことはない。きっとそうではあるまい、と、誰も言ってくれないその言葉を、知らず自分で補完しようとしたのかもしれない。
 だが、それは明らかに無駄な行為だった。
 留守
 ――ときて、
 クビ
 ――ときて、
 新人
 ――ときたもんだ。
 そこから導き出される答えは、ひょっとしたら幾通りもあるのかもしれないが。レイリーの頭が弾き出した答えは、たったひとつだけだった。そしてその答えは、大変好ましくない。大変、望ましくない。
 と、男がこちらを向いて、レイリーと視線を合わせた。反射的に、眉をひそめる――リック、というらしい彼の目元、口元、頬、眉。そしてその瞳と、宿る光。よく感情を表す顔の部品全てが、明らかに挑戦的な雰囲気でもって、じっと彼女を見つめているのだ。
「……どうも」
「…………」
 初めての挨拶がよろしく、ではなかったことの意味を、レイリーは薄々感じ取った。しかし、何も言えない。一言も応えられない。
 ドルナダの声が響く。
「彼は、コードウェスタで評判の良い料理店に勤めていたのだが、噂を聞いて宮中調理師に招いたのだ。すると、お前たちが不在の間に、ぜひ自分に菓子作りを任せてくれと言ってな……試しに数日作らせてみたが、素晴らしい腕だった。エリナも実に気に入ったようでな」
 深い玉音で語られる言葉の、ひとつひとつが肩にのしかかり、胸に突き刺さる。背後で、小さく息をつくのが聞こえた――マイクだろうか、フィリガルだろうか。それとも、実は自分の吐息だったのだろうか?
 おそらく今、自分は酷い顔をしているんだろうな、とレイリーは頭の片隅で自覚した。己の表情が硬く強ばっているのが、鏡を見るようにわかる。しかし王は気にする様子もなく、まっすぐに彼女を見、続けた。
「彼の菓子は、今まで食べたどんな菓子よりも繊細で、美味だった。そう、お前たちが作ったものよりも、だ。加えて、彼は……お前たちのように、食材を求めて長く城を空け、余たちの食卓を寂しがらせることもない。
 よって」
 ――その一瞬が、レイリーには永遠にも等しく感じられた。
 王が言葉を切り、一呼吸置き、再び喋り出すまでのほんの一瞬。その刹那の間に、彼女は何でもいいから、それを止めようとした。大声で叫ぼうとした。自分の耳に、その言葉が届くのを防ぎたかった。
 しかし、できなかった。
 彼女はただ、わずかに歯と唇の隙間を開け、喉と舌をかすかに震わせただけで――ドルナダは、きっぱりとその先を口にした。
「余は、お前たちの代わりに、彼を王国菓子職人の任に就けようと思っておる」
 衝撃は、思っていたよりも随分ゆっくり、心の底から涌いてきた。それは彼女の全身をくまなく満たし、その全てを彼女が理解した途端に――弾けた。