第二話−7


「つまりでございます。ダルドン七年、共歴における五〇五年に開催されました、『ルーディア王国、アルカラレフスタン連盟間における商業協定と相互干渉規定についての会議』が、大成功を納めました理由は――」
 広大な部屋に、淡々とした女性の声が流れている。
 質素だが、高級感溢れる内装。毛足の長い深緑の絨毯が敷き詰められ、大きなガラス窓やベランダから差し込む陽光には、わずかな埃も浮いて見えない。窓がない壁には、隙間なく本棚が並べられ、それにこれまた隙間なく書籍が詰まっていた。
 快適でシンプル、高級で機能的。相反する要素を巧妙に織り込んだ、見事な部屋である。
 その部屋の中央、やや窓寄りにでんと据えられた巨大な机に、むつかしい顔をした少女が向かっていた。艶やかな栗色の髪に、くりくりとした紫の双眸――ルーディア王国の王女、エルキナ・ライディオス=リー・ルーディア姫である。本日は、落ち着いた蒼のルームドレスを上品に着こなしている。
 彼女の斜め後ろに立った女性が、さっと机上の本に手を伸ばしてページをめくりつつ、言葉を続けた。
「――両国が、互いの状況を良く理解し、また友好をもって考えることを念頭に置いて会議に臨んだからに他なりません。もしも我がルーディアが、またはアルカラレフスタン連盟が……もしくはその両方が、お互いの利権にのみ終始したのであれば、今の両国の発展はとても望めなかったでしょう。そしてその翌年、ダルドン八年に?」
「……ええと。王都……その頃のルーディア王都、サウロンバリドで、ルーディア王国、アルカラレフスタン連盟相互不可侵条約――」
「その通りでございます」
 女性の声がにっこりと微笑むのを聞きながら、エリナはくすりと笑った。
「――略して、ルータン条約が締結されました、ということですわね?」
「まっ……」
 甲高い声をあげた後、しばしの沈黙を挟んで、その女性教師はエリナをたしなめた。ひょっとしたら、笑いを堪えたのかもしれない。
「エリナ姫様。略称で覚えるのは構いませんが、ちゃんと正式名称も忘れないようになさるのですよ?」
「はーい。わかっておりますわ、リーザ先生――」
 彼女が答えた時、城の鐘が三つ鳴った。フェルギオラに時を告げる、リルクアナ時計双塔の鐘の音だ。
「……はい。それでは、本日はここまで」
「ありがとうございました!」
 挨拶するや否や、エリナはババッと机上を片づけにかかった。使っていた羽ペンをペン立てに突き刺し、ばたりと本を閉じて棚にしまう。あらあら、と教師が声をあげた。
「そんなに急いで。転んで怪我をいたしますわよ?」
「うふふ。だって、もう三時なんですもの。急がなくっちゃ……今日はどんなのを作っているのかしら!」
 彼女が宮中菓子職人にいたくご執心なことは、この女性教師も知っていることである。苦笑はすれど何も言わない。エリナは跳ねるような足取りで、小走りに部屋を横切った。
 と、
 コンコンッ
 ドアに辿り着く前に、外からそれがノックされた。エリナは足取りを緩め、小首を傾げながら声をかける。
「はーい?」
 カチャリとドアノブが回る。
『ワシだ、エリナ。入るぞ――』
 その声を聞いた途端。
 ダッ、と子鹿のように前へ飛びだして、エリナは今しも開こうとしていたドアを、両手で思いっきり突き戻した。バターン、と実に豪快な音がする。
『ぐおッ!?』
「だめぇ〜〜〜っ!」
 ギュ、とドアノブを握り、渾身の力でドアを押しつける。外から、ドアが何度も叩かれた。教師がなんだか後ろで唖然としているが、今はとことんどうでもいい。
『こら、エリナ、何をするか!? 開けろ、ワシだ! 開けなさい!』
「言ったはずですわ、お父様! あたくし、レイリーたちの地位が安泰になるまでは、お父様のお顔なんて見たくもありませんの!」
『ええい、まだそんな聞き分けのないことを言っておるのか!』
 どうやら、ドアの向こう側にいるのはこの国の現王、ドルナダ王その人のようである。ドアを押さえているのが小柄な愛娘とわかっているからか、おいそれと強い力でも押せないようだ。これも親バカというのであろうか。
 しかし、エリナは必死である。
「お父様なんて知りませんわ! レイリーたちにあんな意地の悪いことを言って。エリナは怒っているのです! シニツの第二十日、決戦の日まで、娘の顔をまともに見ようとは思われないことですわね――」
『そのレイリーたちが旅立つようだぞ!』
「――ええッ!?」
 驚き、押さえていた手をパッと放す。当然、ドアは弾かれたように内向きに開いた。
「うおおっ!?」
「きゃ!」
 こちらも驚いて倒れ込んできた、美髭の王――ドルナダ・ライディオス=ウォー・ルーディアを、素晴らしい反射神経で後ろに跳んでかわし、エリナは言った。
「お父様! レイリーたちが……なんですって!?」
「う、うむ。だから、旅に出るそうだ」
 うつぶせに倒れたままの体勢で娘を見上げ、ドルナダ王。可愛い顔をちゃんと見るのも八日ぶり、とばかりに目尻が緩んでいたりもする。威厳漂う強面の王といえど、娘の前ではふにゃらかぽーんであった。
 ともかく。聞いてエリナの驚かんことか。
「旅に……レイリーたちが、旅に!?」
「そうだ。いち早く報せてくれた利け者がおってな。また新たな食材を探しにゆくらしいぞ。ふっふ、なかなか面白くなってぐはッ!?」
 唖然としていたエリナは、突然、父親を容赦なく踏みつけて部屋を走り出た。背後からなにやら叫ぶ声が聞こえたが、そんなものは無視ぶっちぎりである。
 複雑な構成の廊下を駆け抜け、けたたましい足音を立てて階段を降りる。すれ違う文官を驚かせ、顔馴染みの使用人にくすりと笑われ、いつものT字路を曲がって、そこで歩を緩める。
 ちょうど、突き当たりのドアが開いて、よく知った顔が出てくるところだった。
「――レイリー!」
「……あら。見つかっちゃった」
 あはは、と笑うレイリーに勢い良く駆け寄り、抱きつく。優しく抱き留めてくれる、ハシバミ色の瞳の彼女は、いつもの見慣れた調理服姿ではなかった。旅装――動きやすく、通気性に優れたハーフパンツに、頑丈なストッキング。皮のベストに、多目的ベルトや脛当てまで身に着けている。その背には、傭兵が好んで使う、小振りで強靱な弓。
 彼女が、食材を求める旅に出る時の格好だった。
「レイリー……旅、に?」
「ええ。相変わらず、情報が早いですね。あ、このカッコ見ればわかるか」
 にっこりと頷く彼女に、エリナは潤みそうになる目を先に擦った。わ、と慌てるレイリーに首を振り、微笑む。
「今度は、どこへ行きますの?」
「え、と……サンダラクト。ヤルツファニア王国へ、行ってきます」
「そう……。必ず、必ず帰ってきてくださいましね」
 強く抱きつくと、レイリーはまた笑って、もっと強く抱きしめ返してくれた。自分と同じような細腕なのに、力があって、頼りがいもあって。この数ヶ月で、姉のように慕う存在となったレイリー。
 ずっと、この城にいてほしい。エルキナは願った。
「食材なんて手に入らなくてもいい。お仕事も、あたくしが駄々をこねてでも、二の腕を切ってでも、なんとかして差し上げます。だから、だから……」
「あはははは、どうしたんです? エリナ姫。帰ってきますってば」
 いつの間にか流れていた涙を、レイリーが指先で拭ってくれた。見つめると、彼女はもう一度、しっかりと頷いてくれる。
「大丈夫。あたしたち、帰ってきて、あのいけ好かないリックに勝つんですから!」
「……ええ」
「ほらほら、何してんだい? 急ぐよ、レイリー!」
 厨房から出てきたフィリガルが、ぽんと彼女の肩を叩いて言った。レイリーより軽めの旅装に、真っ黒なマントを着込んでいる。調理服を着ていない時はいつも着けているものではあるが、最近は連日調理服のみだったので、なんだかそれすら新鮮な気がした。
 彼の後ろには、荷物のほとんどを一手に引き受けたマイクが立っている。彼も旅装に皮鎧を着込んでいるが、その全てがサイズが合わずに特注したものばかりである。大きなリュックを背負って、こちらも準備万端のようだ。
 エリナは笑顔を浮かべた。やっぱり彼女らが、ルーディア王国の菓子職人だ――たとえ突然の向かい風に遭って、クビになりかけているのだとしても。この三人以外に、考えられない。