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第五話−2
谷を東へ、目測で一キロちょっといった辺りから、急にわだかまっている薄い霧。山の霧とは、あんなふうにできるものだっただろうか。なんだか、あの先の谷を見えないようにしているような、いわばわざとらしさのような不可解な違和感がある。この辺り特有の現象かなにかだろうか……?
そんなことを考えていると、前方で水の跳ねる音がした。見ると、マイクとオルバが、幅十メートルほどの谷川をばしゃばしゃと渡っている。レイリーは振り返った。熊はまだ、見えない。
「よしっ。ほら、フィル! いつまでしがみついてんのよ!?」
「う〜〜〜ん。レイリーの手、柔らかい……♪」
「死ね変態!」
「レイリー!」
呼ばれ、フィリガルを適当に蹴り飛ばして振り向く。川を渡りきったマイクが、行く手を指さしていた。その示す先を見、眉根を寄せる。
川の向こう、草地を挟んだそのまた向こうには、何かの木の森があった。レイリーが見たのは、さらに向こう――ゴツゴツした岩壁が切り立った、文字通りの断崖絶壁である。そんなに高くはないだろうが、登るのは不可能とみていいだろう。
バシャバシャと、水を蹴散らして川を渡る。ストッキングも靴もびしょ濡れだ。マイクたちと合流して再び走り出しながら、レイリーは言った。
「ダメね! 直線で逃げるとしても、ここまでだわ……てゆーか、もうめんどいから戦っちゃわない!?」
「いや、それよりもだな! あの森を見たか!?」
「森?」
言われて、レイリーはきょとんとした。森とは、たった今向かっている目の前の森のことだろうか。背の高い木が濃く密集しているが、別になんの変哲もない。
「……あ。あそこに隠れて、とりあえず様子を窺う?」
「あ、ああ。それはもちろん、そうしたらいいと思うんだが……」
レイリーは首を傾げた。どうも、彼が何を言いたいのかわからない。ちらりと見ると、彼は首を横に振って、顎でまた森を示した。早く行こう、ということだろう。
メキメキと木が倒れる音に、再び背後を振り返る。まだラリーベアの姿は見えないが、追ってきているのは間違いない。まったく始末に負えないやつだ。
(……あいつをほっといたら)
後ろを睨んだまま、身体を横向けて走る。シュリフと、サンダラクトの村を思い浮かべた――昨夜、たった一夜だが、一緒に唄って踊った陽気な人々。美味しいお菓子の作り方を、目を輝かせて聞いていた少女たち。
(あいつをほっといたら、いつか村を襲うかもしれない……今ここで倒すか、ルクオンから討伐団なりなんなり出してもらうように、戻ってシュリフさんに伝えないと)
レイリーは歯噛みした。ラリーベアなんて化け物がいる山の近くに住んでいて、よくこれまでサンダラクトの人々は気楽にのんびり生きてこれたものだ。シュリフはこの山の見回りもしていると言っていたが――モンスターがいないだなんて、とんでもない。
「わっ、たっ……と」
ずっと後ろを向いて進んでいたので、当然のことながら転びそうになった。慌てて体勢を立て直すと、自分がつまづいたのが、立ち止まったマイクの足だったと知れる。
「ちょっと! なんで足横に出してんのよ、ってかなんで止まってんの!?」
「あ、ああ、悪い。振り向こうとして……見ろよ」
言って、顎をしゃくる。怪訝そうに眉根を寄せ、レイリーは彼が示す方向、つまり、目指していた森に目をやって――
「……なによ……これ?」
ぼやけた声が漏れる。彼女は棒立ちして、ぽかんとそれを見上げた。
高さはきっと、六、七メートルほどにも達するだろう。太い焦げ茶色の幹から四方八方に枝を伸ばし、薄い緑の小さな葉を無数につけている。見上げる彼らに冷たい谷風が吹き、その枝葉の先についた、巨大な、レイリーの上半身ほどもある茶色い楕円形の実を揺らした。
もはや飲み込む唾もなく、レイリーは呆然とそれを見つめて言った。
「こ、れ……リビアナの、木?」
「……みたいだな」
「なんとも、まぁ……」
大きく息をはく音が聞こえ、そちらに目をやる。彼女と同じように揺れる実を見上げたオルバが、ゆっくりと首を横に振って呻いた。
「ここまで、大きくなるものなのか……一体、この谷には何がある……?」
「オルバさん……?」
「あ、あれぇ? なんだよ、また、みんなして、止まって……何――」
ようやくふらふらと追いついてきたフィリガルの言葉を遮って、咆吼が響いた。全員がハッと我に返り、振り向く。
小川の向こう。ケハンの木立を裂き割って、ラリーベアが姿を見せていた。こんな遠目でも分かる、真っ赤に滾った双眸でレイリーたちを睨み付けている。
「くっ……仕方ねぇ、こうなったら――」
「待て!」
剣を抜きかけたマイクを一声で制したのは、なんとフィリガルであった。今の今までよれよれのへろへろだった表情をキリリと引き締め、四つ足を地につけて突進の構えを見せたラリーベアを指さし、声高に唱える。
「駆けろ駆けろ火の妃火の姫火のギーガイア其と彼の間に吹き込むならば栄光を吹き込まぬなら其は焼き尽くせ! そぉれいけッ!」
彼の掌の先の空間に、一瞬、赤いわだかまりが発生し――すぐに微塵に砕け散り、その破片が猛烈な炎となった。螺旋を描いて飛翔し、小川の上を越え、ラリーベアの手前の地面に突き立つと大爆発を起こす。
その音に紛れるように、フィリガルは叫んだ。
「今だ! 早く森に隠れろ!」
「……っ!」
ダッと駆け出し、レイリーたちはリビアナの森に飛び込んだ。僅かな下生えを突っ切り、木立の影に身を隠す。レイリーは、思わず小さく息をつき、同じ木陰に隠れたフィリガルを横目で見た。
「フィル……あんた、もう大丈夫なの?」
「なにが? ああ、うん。疲れてたのは演技だから。ああやればレイリーが肩貸してくれるかなァって思ってね。実際今日は手を握れごぶッ!?」
肘で思いきり鳩尾を突く。額に青筋が浮き出るのを感じながら、レイリーは周囲を見回した――マイクもオルバも、それぞれ木陰に身を隠している。マイクは枝で頭を打ったらしく、糸目の上をさすっていた。苦笑して、木の幹を盾に、こっそり顔を覗かせる。
もうもうと立ちこめる土煙。風がそれを追い払うより早く、ラリーベアが走り出てきた。小川の手前まで来ると、後足を使って立ち上がり、空を向いて咆吼する。継いで四つ足に戻り、地面をふんふんと嗅ぎ回りはじめた。
「……小川があったのは幸運だったな」
「うん」
呟くマイクに頷く。オルバも、川縁をうろつくラリーベアの様子を窺いながら、
「臭いが消えとる、ということか……?」
「そうです。あたしたちがここに隠れる瞬間は見てないはずだから、このままじっとしていれば……気づかないはず」
固唾を呑んで見守る。ラリーベアは、ざぶんと川に飛び込んで、対岸に渡ってきた。
思わず、握った弓に力を込める――今度見つかったら、たとえこの奇妙な森の奧へ逃げ込んだとしても、その先は断崖絶壁だ。気づかれたら、戦うしかない。
と、気を引き締めていたりしたのだが、
「……ちょっと、フィル……なにしてんのよ」
「ん。何って? ボクはただ、木陰にちゃんと全身を隠せるように、ぴったりくっついているだけじゃなぁひたたたたたた」
「あたしにくっついてんじゃないわよ! 蹴り出すわよ、あの熊の前に!?」
さわさわと背中を撫でさすってきたフィリガルの太股をつねりあげ、レイリーは低い声で勧告した。まったくこの男ときたら。いつでもどこでも、たとえ逼迫した事態においてでもお軽い行動を忘れない。その初志貫徹の念と根性は、相応の報復でもって評価するべきであろう。
「でも、今更木を移動するわけにはいかないだろ? 見つかっちゃうよ。ね、レイリー♪」
「……いいから、くっつくのはやめろって言ってるの。ったく……」
大きな水音に、またこっそりと片目を出して様子を窺う。ラリーベアが小川を渡り、こちら側にあがってきたところだった。ぶるぶると全身を震わせて水気を切り、小さく何度か吠える。地面に顔を近づけて、また臭いを嗅いでいるようだ。
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