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第五話−4
ハッと振り返り、草地を窺う。
「なんだ!?」
「……ラリーベアよ。戻ってきた」
静かな緊張が満ちる。東へ歩いていったラリーベアが、小川に沿ってこちらに戻ってきていた。四つ足で大地を蹴り、必死で走っているように見える。
レイリーは眉根を寄せた。なにか様子が変だ。
「なんだありゃ。あの熊、何急いでるんだ?」
「はっは。あれはきっと、トイレを探して……あ、れ……?」
フィリガルの軽口が、途中で切れる。ラリーベアが、彼女らのいる場所に近づいてくる――その後ろから。
どんどんと、霧が沸きだしていた。いや、沸きだしているのではない。霧がまとまって動いているように見えた。東から西へ、ラリーベアと同じように。
(なに、あれ……? ありえない……)
「なんじゃ、ありゃあ……?」
同じことを感じたのか、オルバが訝しげに呟く。
「霧が、熊を追いかけとるのか……?」
『ッ!!』
その言葉を聞いた瞬間、ビクリとレイリーたちは震えた。
霧が、追いかけている。確かにそうだ、そう見える。しかしそれは、よくない。あまりにも、よくなかった。
「霧が……!? お、おいおい。それって……あれか?」
「ま、まさか……ありえないよ」
突然浮き足立つ彼らに、オルバは眉根を寄せて言った。
「どうした? まさか、なんぞあるのか、あの霧に……確かに妙だが」
「リビング・ミストを知っていますか」
自身、信じられない。大変な緊張を感じながら、レイリーはオルバに言った。
「リビング・ミスト……霧に住む? いや、知らんが」
「大陸の、西部辺りではとても有名なんです。霧が動いているということは……動かしているヤツがいる、ということです」
彼女は、首をゆっくり横に振った。傭兵時代に聞いた話だ。しかし、それはまったく現実味のない、伝説のようなものだった。オルバの言葉を聞くまで、思い出しもしなかった――霧を操るモンスターの話など。
そう、モンスターである。
「あの霧が……あの霧が、本当にラリーベアを追って、動いている、のだとすると」
硬いレイリーの声音に重なって、ラリーベアの咆吼が響き渡る。それは怒りや闘志に満ちた吼え声ではなく、恐怖に駆られた悲鳴に聞こえた。やはり、ラリーベアは何かから逃げている。あの強力なモンスターが、必死になって。
そして――霧の中から、何かがそれに答えた。
キシュアアアアアアアアアアッ!!
『……!』
耳を引き裂くような、甲高い咆吼。
その声は、なぜか谷間にこだませず、何かに吸い込まれるように消えてゆく。霧の前進が、止まった――ラリーベアを包む直前で、ひたりと、明らかな意志を感じさせてわだかまる。
静まり返ったレイリーたち。脚を止めずに逃げ続けるラリーベア。
唐突に、まったく突然に、霧の中から顔が突き出された。見上げた、遙か高み――二十メートルはあろうかという位置に。
猛禽類を思わせる、鋭角的な銀色のライン。しかしその嘴であるべき部分には、巨大な尖った牙がずらりと並んでいる。その一本一本が、おそらく人間の腕ほどの長さと太さがあるだろう。口腔の奧から漏れる呻きは、その響きだけで膝が笑い出すような、尋常ならざる圧力をもっていた。
ゆっくりと、霧の中からソレが全身を現す。頭に続いて、細く長くうねる銀色の首。なだらかな流線型の体躯。大木のような脚が、霧の中から初めて振り下ろされた時、ズシィンというとんでもない音がレイリーの鼓膜を揺さぶった。
「……ッ!!」
喉から出かけた叫びを、ぎりぎりのところで噛み殺す。
薄く広がる霧に、すっぽりと収まっていたその巨体――霧を透かした向こうの景色は、異常なほど鮮明に見える。しかし一体どういうわけか、いまだ半分以上霧中にあるのだろう巨体の残り部分は、レイリーにはまったく見えなかった。確実に輪郭が続いているはずの場所にも、遠く山の稜線が望める。
だが――その不可解極まりない現象も、目前に出現した、圧倒的脅威の存在感に容易く打ち消されてしまっていた。
見えている部分にびっしりと並ぶ、銀色の光彩。おそらくは、それの鱗だろう。まったきシルバーに包まれた中で、唯一真っ赤に染まった光は、逃げる獲物の背を真っ直ぐに見つめる、狂気を秘めたような双眸。
霧の中から現れた、小山のような超巨大モンスター。レイリーは、最悪の予測が現実になった、あの震える感覚――突き抜ける驚愕と、気の早い絶望と。そして、どうしようもない虚脱感に襲われた。
(……そんな……ビンゴ……!?)
巨獣は、必死に逃げるラリーベアを嘲笑うように見える表情を浮かべ、天を仰いで咆吼する。
ギャオォォォエエエエエエエエエエエエッ!!
谷間にこだまする大声音。聴覚を麻痺させかねないほどの音量に、思わずレイリーは耳を塞いで――瞬間。
猛然と霧が回り込み、あっという間に周囲を包んだ。
レイリーたちがいるリビアナの森も、逃げ続けるラリーベアの行く手も、薄い薄い白に満たされる。いや、本当に自分たちが霧の中にいるのかどうかすら、遠景と見比べねば判別できない。
それは、凄まじい違和感の世界だった。霧の中なのに遠くが見えて、遠くを見なければ霧中だとわからない。一体、なにがどうなっているんだ!?
「ど、どういう……うっ!?」
「おわっ……!?」
「こ……こいつぁ……!」
皆、同時に息を呑む。
もはやどういう理由でのことか、考えるのも億劫だが――まったく見通すことのできなかったそのモンスターの全貌が、この霧の中では完全に確認できた。長い長い首に、小さな頭。冗談のような巨体に四つ足。遠く鞭のようにしなっているのは、首と同様に長いそれの尻尾だ。
全身、銀色の鱗に覆われた、信じがたい生き物がすぐそこにいる。
「なんっじゃ、こりゃあ……!?」
「……リビング・ミスト」
さすがに、どこか芯が抜けたような声を漏らすオルバに、同じような声で答える。
「ミストドラゴンの……別名です」
レイリーは頭を抱えた。
今までの人生、一体どこをどう間違えてこんなことになったのだ!?
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