エピローグ





「どこへ行くのかね」
 リック=ハルーカインは足を止めた。夕焼けに染まる廊下を振り返る。
 外周内廊第三、という名がつけられたその廊下は、数多くある中庭のひとつに面してはいるが、仕事場の多い本棟や塔区域と違って、この時間の人通りは少ない。中央からかなり外れた静かな場所にあり、大きく開けた空や庭が見回せるので、散策や逢い引き等、職員たちの憩いの場となることが多いところなのだ。現に今はリックと、彼を呼び止めた者以外には庭にもほとんど人影が見えない。
 私服を身に着け、バッグを手にしたリックは、背後に立っている人物を見て眉根を寄せた。すぐに目を逸らし、言葉少なに言う。
「なんですか、コーネおじさん」
「ウィックランド調理師長、と呼びなさい」
「その必要はありませんね。僕はもう――」
「ここを出るのだ……とでも、言うつもりかね?」
 リックは頷いた。
 調理服姿のコーネ=ウィックランドは、柱の影から歩み出て、リックが片手に持っているバッグをちらりと一瞥した。城に置いていた私物が、無造作に詰め込まれているのだろう。もう片方の手には、白い封筒が握られていた。
「……その辞表を、どこの誰に出すつもりだね」
「おじさんの机に置いて帰るつもりでした」
「なぜだ」
「なぜって。直接渡しにいったところで、どうせ受け取ってくれないんでしょ?」
「……当たり前だ」
「だからですよ。何を言っても無駄です、僕はもう嫌なんだ。今日のことだけじゃない。おじさんだっていつも事なかれ主義で――」
「自惚れるな」
 コーネはつかつかとリックに歩み寄り、封筒を取り上げた。彼の目の前で、ビッと半分にそれを破く。
「それで負け犬を気取ったつもりか、リック……ここを出てどこへ行くつもりだ。お前はもう、ただのリック=ハルーカインではない。わたしの下で学び、そしてホイロッサさんたちに破れたハルーカイン調理師だ。どこへ行くつもりなんだ、リック」
「……おじさんには関係ないでしょう」
「まだわからないのか……お前は、今回負けたのも、あのリビアナという果物の所為だと思っているのだろう。バカを言うな。お前がただ単に、彼女らに劣っていたから負けたのだ。ただそれだけだ!」
 リックが目を剥き、わずかに口元を震わせた。言われた内容もそうだろうが、コーネがこれほどまでに声を荒らげることなど、今まで一度もないことだった。
 彼を睨み付けたまま、コーネはもう半分に封筒を破った。もう半分に、またもう半分に――これ以上破れなくなったところで、バッと中庭に投げ捨てる。立ち尽くしたリックの胸に、彼は指を突きつけた。
「他の誰でもない、お前が負けたのだ、リック。お前がまだまだ未熟だという、これ以上ない証拠だ……そんな程度の腕で他へ行って、コーネの弟子だと言われるつもりか。勝負に負けた上、おめおめ逃げ去って生き恥を晒すような人間しか育てられないと、わたしを言わせるつもりか。……そんなことは許さんぞ」
「……僕は……負けてない」
「いいや。お前は負けたんだ、リック」
 しばらく、二人を風の音と、遠い喧騒だけが包んだ。黙ったまま向かい合う彼らを、通りすがった白衣の女性がちらりと一瞥して、足早に通り過ぎてゆく――その背中が、角を曲がって見えなくなった時。リックが呟いた。
「ホイロッサたちが作った……あの透明なお菓子。あれは――」
「違う。……あれは、ラブスの失われた菓子ではないよ。製法が違った」
 リックはようやく、コーネを正面から見た。驚いたように言う。
「おじさん……まさか、聞き出せたんですか」
「いいや。わたし自身、ラブスの出身なのだよ……ホイロッサさんたちがあの菓子を出した時は、我々ラブスの途絶えかけた伝統食をどうやって知り得たのかと、驚きを隠せなかったが。全くの別物だとわかって、もっと驚いたよ……ラブスのゼリーは、海草の一種を使って作るんだ。ホイロッサさんたちがやったのとは、違う」
 ラエブーツ共和国、ラブス地方。その沿岸部だけに伝わる、特殊な製法の菓子――もうほとんど伝える者もいないそれに酷似した一品を、レイリーたちは作っていたのだった。リックがその存在を知っていたことも、コーネにとっては驚きだった。
 再び黙ってしまったリックに、彼は小さくため息をついた。
「リック。お前は負けはしたが……頑張ったじゃないか。口惜しいのは当然のことなんだ。顔を背けてしまうことはない」
「……僕は」
「わたしは、お前に票を入れるつもりだったよ」
 リックが顔を上げる。どうして、と問われる前に、コーネは言った。
「お前の菓子のほうが、わたしは美味しいと思ったからだ。同情でもなんでもない……ただ、二対一だっただけだ。お前は、一所懸命やったんだ。誰から逃げる必要がある」
 言うべきことを全て言い終えて、コーネは踵を返した。日が落ちて暗くなった廊下に、係の魔術士がぽつぽつと灯りをともして回っている――誰かが後ろから走ってきた。
 振り向くと同時、リックが彼を追い越して、城の中へ駆け込んでいった。
 コーネは、物静かな口元にほんの少しだけ笑みを浮かべて、しばらくその場に佇んでいた。


 レイリーは、大きな音を立てないよう、ゆっくりとドアを閉めた。
 フェルギオラ西部地区。こんな深夜でも、ナルティエ大通りにはたくさんの人がいて賑やかだったが、さすがにこの部屋は真っ暗である。思えば、下宿しているここへ帰ってくるのも相当久しぶりなんだなァ、と彼女はぼんやり考えた。
 前回の旅から帰ってきて、いきなりの解雇通知。それをなんとか回避してからは、ほとんど城に泊まり詰めで菓子を作っていたし――サンダラクトへ行ってからは、言わずもがなである。決して広くはない部屋を見回して、レイリーは小さく吐息した。
「テリダムさん、掃除してくれてたんだ……挨拶行かないと……ああ、明日でいいや。こんな時間だしね」
 暗がりの中、ベッドに腰掛けて、今度は深々とため息をつく。あれから、城の夕食へ菓子を饗することも忘れ、ずっと厨房でどんちゃん騒ぎを続けていたのだ。他ならぬエリナ姫も一緒になってはしゃいでいるので、どこからも文句は出なかったが、正直ちょっと迷惑だったかもと思う。明日からは、また頑張って働こう。
「働けるんだもんね、うん。ほんと、良かった良かった……」
 呟きながらぽいぽいと服を脱ぎ捨て、半裸でベッドにもぐり込む。積もり積もった疲れが一気に押し寄せてきて、大きなあくびが出てしまった。色々とはしたないけれど、誰も見てないから問題ない。以前、少しの気配すら感じさせずにフィリガルがこのベッドに忍び込んでいた時は、さすがに驚いて下着姿のまま半殺しにしてしまったこともあるが――さすがに今日はないだろう。
「あ……そういえば」
 窓の外がちらちらと明るい。だが、もうそろそろ大半の店が灯りを落とす頃合いだ。眠らない街フェルギオラといえども、静かに落ち着く時がある。それと同時に眠るというのは、なかなかいい贅沢ではないだろうか。
 徐々に弛緩していく感覚の中、レイリーはぽつりと呟いた。
「リビアナの実の成り立ちも、山にいっぱいモンスターがいた理由もわかったけど……どうして、あんなところに……ミストドラゴンがいたのかな……?」
 やがて彼女は、静かな寝息をたてはじめた。





 レイリー
 ああ、可愛い子
 貴女は今夜、きっと素敵な夢を見るだろう





サンダラクトの霧谷 完