第一話−1


 ルーディア王国の宮中菓子職人、レイリー=ホイロッサの朝は、基本的に遅い。
 リルクアナ城に勤務する彼女ら宮中菓子職人は、王族に加えて限られた高級文武官たちの夕食に饗する菓子を作る――合計で、約二百人分のお菓子を一気に作らなければならない。しかしその量は、城にいる全ての役人やラノー、兵士たちに至るまで全ての食事を賄う宮中調理師たちに比べれば、ほんの微々たるものなのである。たった三人の彼らに対し、宮中調理師は何十人といるのだから、当然といえば当然だが。
 そういうわけで、レイリーたちの出勤時刻は定時なのである。メニューによっては、もちろん早くから登城して準備しなければならないが、それでも毎日朝日が昇る前から活動している調理師たちとは比較にならない。故に最初は、なんだ意外に楽々じゃ〜ん、と割とゆったり構えていたのだが、
「めちゃねむ〜〜〜〜〜……」
 この頃は、とある事情によりそうもいかなくなり、レイリーは蜂蜜と酢を混ぜた歯磨剤でしゃこしゃこと歯を磨いた。高級歯ブラシほしいなァ、などとぼんやり考えながら、ガラガラとうがいする。
 彼女が寝起きする部屋は、王都フェルギオラの西部地区、城にほど近いナルティエ大通りに面したパン屋の最上階にある。城勤めが決まった翌日、街をあちこち散策していた折りに、パンの焼ける香ばしい匂いに惹かれて店に踏み込んだのがきっかけだった。美味しいパンに惚れ込み、ちょうど下宿を募集しているという話を聞き、食事はうちのパンを好きなだけ、というこれ以上ない条件に、一も二もなくその場で住ませて下さいと申し出たのだ。
 下宿での朝は、大変快適である。家族で店を切り盛りするテリダム夫妻はとても優しく、いつも笑顔でレイリーにパンを食べさせてくれる。彼らの娘である店の看板娘、今朝も起こしてくれたキャロラインとも、この一年足らずですっかり仲良しになった。学校で弓撃クラブに入っているらしく、何度も弓を教えてくれとせがまれるのだが、今のところ実現していない。
 レイリーは、店の食堂で焼きたてのパンをたっぷりと堪能した。
「めちゃうま〜〜〜〜〜……」
 腹ごしらえができたら、すぐに登城である。大勢の人で賑わうナルティエ通りを、てくてくと歩いて城へ向かう。乗合馬車は滅多に使わない。フェルギオラの各通りは、どれも大変よく整備されているが、やはり安い馬車はよく揺れるのである。お尻がとてもとても痛い。
 しかし今現在、暦はハウラーワの月の第二十八日。夏真っ盛りである。ルーディアは季節による温度変化が大きく、この時期はとにかく日差しが強い。帽子売りの屋台が出回って、大繁盛するくらいなのだ。
「めちゃあつ〜〜〜〜〜……」
 ハーフパンツに薄手のシャツ。その上から、膝ほどまである緑でひらひらの薄布を羽織って帯で留めた、ラフな格好で登城する。厨房に向かう廊下の途中で、同僚の一人とばったり出会った。
 身長二メートルを超す巨漢。がっしりした体付きの上に、妙に柔らかな輪郭の童顔じみた造作が乗っかっている。アンバランスさが妙にしっくりくる、とんでもない糸目のその男は、片手を挙げて「ぃょす」と挨拶するレイリーを見るなり眉根を寄せた。
「……レイリー。なんだそのカッコ?」
「えー、マイク知らないの? 今若い子の間で流行ってるんだって。ロッサっていうの、このひらひらお気に入りー♪」
「いや、それは知ってるけど。普通城にそんなもん着てくるかぁ?」
「悪い? どうせ更衣室までよ」
 他愛ない会話を交わしながら、マイク=F=ロイケンと並んで混み合った廊下を進む。複雑に入り組んでいながらも広く長い通路は、時間が時間なためか、多種多様な人々で大変ごった返していた。制服、軍服、私服に儀礼服。あまり見慣れない派手な服は、陳情を訴えにでも来た地方の貴族だろうか。
 ここには、情勢的制約はあるものの、国内外問わずあらゆるものが集まってくる。人も、物も、情報も、全てがここを目指すのだと言っても過言ではない。
 一辺数キロに及ぶ防壁で市街を取り囲み、十五万を超す人口を擁する、王国首都フェルギオラ――ルーディアの政治、商業の中心地であり、他に類を見ない城塞都市である。それら全てが円滑に機能している、その事実は伊達ではない。高水準の社会的、経済的分業による専門分野の発達、特に水運、陸運、印刷技術の発展を活かし、国民水準を高めた結果の現れなのである。その基礎なくしてこの光景はなく、つまりフェルギオラは、ルーディアの文化的象徴ともいえる存在なのだ。
 やがてレイリーたちは、人の流れから外れてT字路を曲がった。喧噪が背後に去り、突き当たりのドアと、なぜか壁際に大量に並んだ折り畳み式テーブルが目に入る。それらの上のプレートには、宮中菓子職人専用厨房、と書かれていた。
 彼女らの場所である。
「じゃ、今日も」
「やりますか」
 頷き合い、二人は横手のドアを開け、更衣室へと入っていった。
 レイリー=ホイロッサの城勤めは、いつもここからはじまるのである。




 カラーン カーン――ゴーン ゴーン ゴーン


 高い鐘の音が響き渡り、継いで重い鐘の音がそれを追い掛ける。フェルギオラに時を告げる、時計双塔に据えられたリルクアナの鐘である。最初の鐘は決まって二回、時報のはじまりを民に気づかせ、続く鐘の数で時刻を示す。今は三度鳴ったので、当然三時ということになる。
 音は城を、街を、街の外を駆けめぐる。何か事情でもあれば聞こえないこともあるだろうが、普通に起きて生活している者の大半は、このありがたい時報を耳に入れ、様々な反応を返すだろう。
 さて。
 厨房には音が溢れていた。機具の触れあう硬い音や、まな板を叩く柔らかな音、何かが煮込まれる連続的な音などが相俟って、忙しくも穏やかな雰囲気を創り出している。そこに鐘の音が混ざり込んで、厨房の中にいる三人は、揃って一瞬手を止めた。この場所にある音くらいでは、時報の鐘は遮れないようだ。
「……おっそいわねぇ」
 レイリーは、手にした小刀で木の実の殻を剥きながら、不機嫌にそう呟いた。大きなソラマメほどの黒い皮に刃の根本を入れ、くりっと捻って中の実を取り出す。強い薫りをたちのぼらせるそれを傍のカゴにぽいと投げ入れ、また次の実を手に取る。