第一話−5


 その夜は、アルトニア=ケルトウーケンにとって、非常に微妙な夜となった。


 まんまるなお月様はなかなかに明るく、城の光源とも相まって、実に趣深い空気を醸し出している。そこだけみれば本日の夜は、そう悪くない類のものであった。
「えぇえ〜〜〜っ!? ほ……ほっ、本当に、よ、よろしいんですかぁ!?」
 アルトニア――愛称をアルトという彼女は、今年二十歳になったばかり。家族を早くに亡くし、いくつも国境を越えて放浪生活を送っていた彼女の幼少期は、まったく語るに尽きぬほどの苦難と荒廃の連続であった。地図にも載らないような小さな村で、乞食同然の生活を続け、栄養失調で死にかけたこともある。傭兵の真似事をして武器を持ち、戦で流れる血の多さに発狂しかけたこともあった。
 しかし、紆余曲折を経てルーディア王国正規軍に入ってからは、若くしてその身体的素養を顕した。上司に恵まれ、生活も潤い、補給部隊などでの従軍を経て――今年、晴れて王城特別警衛隊、ラノーに大抜擢されたのだ。試験的なものではあるよと上官から言われたものの、それでもとんでもない名誉には違いない。いわば、成長株として認められたのである。
 そんな彼女が、警邏二部の仕事を終えて警衛兵詰め所へ戻ろうと、闇のとばりが降りて真っ暗になった庭のひとつを歩いていた時。なんと、彼女が先のゲリウス・ゲリーナ戦役の折より尊敬してやまない超一流弓射手、レイリー=ホイロッサに呼び止められたのだ。
 差し入れです、と言って大きな紙袋を差し出す彼女に、興奮したアルトは初めて恋をした時のようにどもりまくりながら礼を言った。
「あ、ありが、あり、ありがとうございますっ……うわ、うわぁ。感激ですぅ……!」
「い、いえいえ。そんな、別に大したものでもないから」
 今は王国菓子職人として勤めている彼女は、最近仕事が終わった夜中に菓子作りの訓練や研究をしているらしい。それで作ったものを、よく夜警のラノーに差し入れているのだという。いきなり憧れの人に声を掛けられたばかりか、手作りのお菓子までいただいてしまう(語弊があるが)ことになって、アルトはひらひらと舞い上がってしまった。勢いのままに自己紹介をし、フィリガルに魔術の授業を受けていることを告げ、アルトって呼んでくださいなどとねだり、しっかりと握手までさせてもらう。
 レイリーは戸惑って呆れて苦笑していたが、幸せなアルトは気づかなかった。これからも頑張って下さいっ、などと微妙に頓珍漢なことを言い、何度も何度も振り返りながら別れる。
(う〜れしいなっ、うれしいなっ。今日は二度もいいことがあった!)
 大事に紙袋を抱きしめて、うきうきと跳ねるようにゆく。授業でレイリーを見れただけでも嬉しかったのに、こんな素敵なことがあっていいのだろうか。とりあえず早く詰め所に戻って、この思いがけない幸運をたっぷり堪能したい。具体的に言えば早く食べたい。
「はっ。でも、ちょっと待って?」
 わざわざ呟いて、立ち止まる。あの、レイリー=ホイロッサのお菓子。強く、気高く、優しく、美しい――思い切り主観でねじ曲げられているが、あくまで彼女の中のレイリーはそうなのである。弓矢を持ちケーキを掲げた、比類なき厨房の軍神なのだ。
 その彼女が作ったお菓子である。練習や研究で作った試作品といえども、アルトにとってこんな宝はない。このまま、誰にも気づかれないようこっそりどこかに隠れて、思う存分――
「い、いいえいいえ。ダメよアルト! みんなだって食べたいに決まってるし。それに、悪事は必ずバレるもの……で、でもでも、レイリーさんのお菓子なんだもん。ちょっとでもたくさん食べたいし! わたしがもらったところは誰にも見られてない。ああっ、でも……!」
 夜の城郭。たくさんの松明や魔術灯に照らされた通路で、一人紙袋を抱えてオーバーリアクションで悶える。心の中の天使と悪魔が代わる代わる呼びかける度に、彼女はなんともアホらしいとしか言いようのないダンスを披露した。
「ケルトウーケン隊員? 何やってるの?」
「うひゃうっ!?」
 突然の声に悲鳴をあげ、エビのように跳びすさる。いつの間にか背後に立っていた青年が、伸ばしてきていた手をビクリと引っ込めた。
「な、なに? ごめん、びっくりさせた?」
「あ、ろ……ローアンさん。いえ、その」
 すらりとした細身に、紫色のラノーの制服がよく似合う。ローアン=リウロンテンドという彼は、小首を傾げてアルトを見た。年上の隊員で、ラノーに入隊したばかりのアルトに何かとよくしてくれている、恩ある人だ。
 しかし、アルトは紙袋を背中に回し、余所余所しく目を逸らした。
「な、なんでもないですよ? 特にそんな、はい。全然」
「そう? ……今日は二部勤だったよね、アルトくん。疲れてるなら、早めに戻って休むようにね」
 言って、にっこりと笑う。
 うぐ、と思わずアルトは呻いた。びかー、と後光でも差してきそうな人の良い笑顔に、胸中の悪魔はひとたまりもなく駆逐されてしまったようだ――彼女は、背中の紙袋を前に出し、涙ながらに釈明した。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ、ローアンさん! あたし、ラノーのみんなにと戴いた差し入れを、独り占めしようとしてました! アルトは悪い子です。ごめんなさいごめんなさいぃぃ」
「……そ、そう。いや、なんてゆーか、うん。君は素直な子だね」
 単純な子、と言わない辺りに優しさのにじむ彼である。
 ともあれ。ローアンに宥められたアルトは、そのまま彼と並んで歩き出した。彼は、警邏三部――ラノーの警備任務は、時間によって一部、二部、三部に分かれている。三部は零時から翌朝八時まで、いわゆる夜警である――の仕事にこれから出るらしく、紙袋の差し入れが王国菓子職人からだ、と知ると嬉しそうに笑った。
「ああ、それは運が良かった! 嬉しいな、宮中菓子職人のお菓子は本当に美味しいからね」
「わたし、まだ食べたことないんです。結構いっぱい入ってますよ……わぁ、これ、延べ棒焼きだ。美味しそう」
「食べてみたらどうだい? ちょうどの機会じゃないか」
 再びにっこり笑って、ローアンが言う。えぇーっ、いいんですかぁ? などと返しながらも、既にアルトはガサガサと袋を揺らして、お菓子をひとつ取り出していた。
 こんがりときつね色に出来上がった、長方形の焼き菓子。よほどその瞬間が待ち遠しかったのだろう――苦笑するローアンに構わず、というか気づかず、彼女はぱくっとその菓子を頬張った。
 サクリと香ばしい表面に、しっとりと柔らかな中身。控えめな優しい甘さに続いて、木の実の豊かな風味が広がった。じっくり味わってから飲み込むと、香りの塊が喉を滑り落ちてゆく感覚が胸を満たす。たちまち、アルトはうっとりと頬を緩ませた。
「お、美味しい……うわぁ、街のケーキ屋さんより、すごく美味しい! しっとりじっくりうっとりですぅ……感動〜〜〜……!」
「ジャムか何かもついてるんじゃないかな。……ていうか、ほんとに美味しそうだね? 僕にもくれるかな」
「あ、はい。ええと――」
「そこな人間ども!」
 それは、先ほどアルトにかけられたローアンのそれよりも、唐突な声であったわけで。
 一瞬言葉も動きも止めてから、二人は同時に周囲を見回した。城に多くある中庭のひとつに面した、広い拱廊。風通しがよく開放的なため、昼の休憩時間などは大勢の人で賑わうが、今は彼女ら以外に人影はない。壁に掛けられた松明、そこここに浮かぶ魔術光などが照らし出す庭を、アルトは怪訝な視線で撫でた。
「……? 今、聞こえましたよね、声」
「ああ。何だろう……?」
「どこを見ておるか。我はここだ!」
 再びの声を追い、彼女らは庭の一点を見やった。
 思いがけず、真っ正面。皓々と照らす満月を従えて、真っ黒い影が立っている――庭の中央に設置されている、職場恋愛の逢い引き場所によく利用されることで有名な、第二代国王シャルロナ・ライディオス=ゲー・ルーディアの銅像の頭の上に。
 何を言うこともできず、アルトはただぽかんとそれを眺めた。あの影が声を掛けてきたのだ、と状況的に理解できても、それ以外の部分――なぜ声を掛けてきたのか、どうして銅像の頭に立っているのか、そもそも一体何者なのか等――がカケラもわからない。ローアンも同じ状態らしく、まったくの無言である。
「とうっ」
 短い掛け声。影は銅像のハゲ頭を容赦なく蹴りつけ、ふわりと宙に浮いた。信じられないほどの距離を直立した姿勢のままで跳び、すたっと軽快な音を立てて二人の目の前に着地する。
 オールバックに撫でつけた銀髪。燃えるような赤い瞳が際だつ真っ白い肌に、キリリと太い精悍な眉。
 ゴッツい笑みを浮かべた、異様な風体の中年オヤジは、大きな黒マントをばさりと払って言った。
「驚き恐れて言葉もないか、愚かなる人間どもよ。我は高貴なる古の血族、ローダトゥショニツリルバナケラーノである! 貴様らがいうところの吸血鬼であるな。しかし安んずるがいい、別に取って食らいは……っておい、なんだ貴様ら――」
 何やら饒舌にしゃべくる男。しかし、ラノーの二人――王城特別警衛隊、非常に優秀な兵士集団の一員である彼女らは、極めて迅速に、かつ基本に忠実に動いていたのである。
 目にもとまらぬ速度で振り抜かれたローアンの警棒が、男を通路に叩き伏せる。
 同時、アルトが吹き鳴らした呼び笛の音が、夜の王城に響きわたった。