第二話−2


 彼女の反応に気をよくしたのか、彼も小さく頷いて続けた。
「というわけで、我はその旅人を助けたのだ。最初、やはり彼女も怯えた様子であったのだがな、すぐに我の意を理解し、打ち解けてくれたのだぞ」
「彼女……? てことは待てよ、女だったのかその旅人って!? うわぁ、なんって羨ましいシチュエーションだよっ!? 巡り会いとしちゃ最高じゃないか! 吸血鬼のクセにいい思いしやがって。おい白状しろよ、それ助けたの絶対下ごこ――」
 ぼぐッ
 レイリーの裏拳がみぞおちにメリ込み、立ち上がってなにやら吠え猛っていたフィリガルは、悲鳴もなくテーブルに沈んだ。ぽかんとしているローダに、静かに告げる。
「バカの言うことは気にしないで。続けて。さ」
「うむ……ま、まぁ、そやつの言う通り、女であったのだがな。助けたのは、さっき言ったように誇りの問題であって、別に下心などではないぞ」
 わざわざそういう言い訳されると、逆にちょっと疑わしくなるんだけど――とは、あえて言わない賢いレイリーである。
 こほんとひとつ咳払いして、ローダはまた語り出した。
「順調に快復した彼女は、我に助けられた礼にと、身の回りを世話してくれるようになったのだ。屋敷の掃除や、森の世話、食事など……それは甲斐甲斐しかった。本来、我々闇の眷属に食事という行為は必要ないのだが、それも次第次第に楽しみになってな。うむ、楽しかった……初めて感じる温かみがあった」
 絵本の文字を追うような、柔らかな視線でテーブルを撫でる。そこには、英雄伝などで凶悪に描かれる、冷徹非常な吸血鬼の面影は微塵もなく、ただ懐かしい慕情に満ちた男の横顔だけがあった。
「わかる……わかるぜ。それで堪えられなくなっちゃったんだよな。風のように過ぎゆく麗しき日々。それを打ち砕く彼女の一言。できちゃ――」
 どぼッ
 突っ伏したまま呟くフィリガルの背に、握った拳を叩きつける。逆エビに反る彼を見もせずに、レイリーは笑顔でローダを促した。
「それで?」
「お、お前……や、な、何も言うまい。うむ。
 それでだな。しばらくすると、彼女は時折『そろそろ出ていく』と言うようになってな。我はその度に引き留め、彼女も応じてくれていたのだが……ある日、今日を境に本当に出てゆく、もう決めた、とな。我には、もはや止めようもなかった」
「そう……でも、どうして? うまくいってたんでしょ?」
「それは――」
「レイリー、だから読みが甘いよ。彼女は実は身籠もっていたのさ。人外魔境の子を宿したことに、本能的な罪悪感を覚えて――」
 がすッ
「続けて」
「……彼女が出ていったのは、一度故郷に戻ろうと思うからだと言っていた。ほんの弾みで飛び出してきてしまったが、後悔もある、とな。そして……彼女が別れ際、最後に作ってくれたものが、唄う菓子だったのだよ」
「……なるほど。そう繋がるわけかぁ。ぅ〜ん」
 どことなく感慨深く、レイリーは何度も頷いた。なんというか、こういう切なげな話を聞くと、感受性がフルに働いてしまう。ローダの気持ちがしみじみと理解できた。ああ、バックに立つゴッツいラノー隊員のなんと邪魔なことか!
「こんなこと言うのもナンだけど、青春よねぇ……。で? その唄うお菓子って、どんなだったの?」
「うむ。それなんだが……少々、説明に困るというか。なんと言うべきかな」
 顔をしかめて腕を組み、言葉を選びながら訥々と語る。
「その菓子自体は、深い器に入っていてだな……いわゆるケーキだったのだろうな。こう、ふんわりとしていて……それで、唄っておった」
「端的にも程があるわね……」
「急かされて食べたので、細かいところまでは覚えておらんのだ。それに、正直言って仰天していたしな――自らの内側から歌が聞こえる、とそのまま表現すれば、お前たちは奇妙に思うだろう。しかしな、あれはなんとも……言葉に尽くせぬ感動だった。
 思い出すに、彼女自身が毎日歌を唄っておった。掃除をしながら、またぼんやりと窓から外を眺めながら、いつも同じ歌を唄っていたな。その歌声はまさに、天上天下最高のものと我は感じた。いつまでも聴いていたいほどのな」
「なんかのろけが入ってないか? つまり独占欲と征服欲ってわけだ。このエロきゅーけつ――」
「マイク」
「あいよ」
 ぼきッ
 しつこく復活するフィリガルの背骨が、曲がってはいけない角度に折れる。黙って話を聞いているが故に存在感の薄かったマイクを動かし、必要以上に存在を誇示するフィリガルを完全に沈黙させる。レイリー=ホイロッサ、なかなかの采配といえるだろう。
 それはいいとして。
「彼女が常々唄っていたのと同じ歌を、その菓子は唄っておった。なんと言おうか、心を直接揺さぶられるような感慨があってな……口に入れると、その歌はするりと溶けるように消えてしまうのだが。我にとっては、歌が自分の中に染み込んでくるような、その一瞬一瞬がかけがえのないものに思えた。あんなに夢中で何かを食べたのは、後にも先にもあの時だけだ」
 ふうむ、と大きく息をつき、ローダは椅子の背に体重を預けた。その時の気持ちを思いだしたのか、うつむいて小さく首を横に振る。
「喜ぶ我を見て満足したのか、彼女はそのまま出ていった。あれからもう五十年、生きているのか死んでいるのかすらわからんが」
「その菓子だけでももう一度食べたい、と……?」
 レイリーの言葉に頷く。きっと、その女性に対する積年の想いが、その菓子への憧憬に繋がっているのだろう。少年のようなその気持ちと、オヤジ一直線な見た目とに申し訳ないほどのギャップを感じ――しかしそれ故に、レイリーはうるうると瞳を輝かせた。五十年の時を経てなお、忘れがたい歌の思い出。なんとも素敵な話ではないか!
 なんだかキラキラしている彼女に、マイクが糸目をさらに細くして身を退いているが、とりあえずどうでもいい。レイリーは身を乗り出し、共感を現すように頷きながら言った。
「なるほどね。そういうことなら、あたしとしても作ってあげたいんだけど……いかんせん、そのお菓子の情報が少なすぎるわ」
「おいおい……本気か、レイリー?」
「なによ。いいじゃない、話は詳しく聞かなくちゃ! 形はケーキっぽかったのよね? 味は? どんなだった?」
 渋い顔を苦く歪めて、ローダは困ったように唸った。
「それなんだがな……どうも、よく覚えておらんのだ。先程も言ったが、早く早くと急かされて食べたものでな。美味かった、というくらいしか」
「そりゃ、それでマズかったら思い出台無しでしょうけど……う〜ん。困ったわね」
「……なら、ローダ。菓子を作った彼女についても、話してみてくれねぇか。どこの出身か、とかがわかれば、手掛かりになるかもしれねぇ」
 小指で耳の後ろを掻きつつ、マイクが言う。レイリーの助け船を装ってはいるが、なんだかんだで彼も興味が湧いてきたのかもしれない。なるほどな、と頷いて、早速ローダは語りはじめた。
「彼女は、その優しい心根ももちろんだが、見目も非常に美しかったぞ。柔らかな髪、穏やかな顔、たおやかな繊手。そして色とりどりの――」
「ろ、ローダ? うん、その話もぜひ聞きたいんだけど……とりあえず、お菓子に関係あることを教えてくれないかなーなんて」
「む、お、おお、すまん。これでは、のろけと言われても致し方ないな……。彼女は、ティオリの森から来たと言っておった」
「……ティ……森?」
 レイリーは小首を傾げた。森から来た、ということも引っかかるが、ティオリという言葉には聞き覚えがある。しかし、どこで聞いたのか、なんだったのか思い出せない。
 マイクも要領を得なかったのか、眉根を寄せて聞き返した。
「ティオリの森……の、ほうから来たってことか?」
「いいや、森に住んでいたらしいが。どうだ、なにか思い当たる節、いや菓子などは――」
「ティオリの森ぃ? おいおい、ちょっと待てよ嘘くさいなァ」
 唐突に復活したフィリガルに、レイリーはびっくりして身を退いた。毎度のことではあるのだが、この男のノリ的再生能力には侮りがたいものがある。いまだ上半身が妙な方向に傾いてはいるが、本人まったく気にした様子はない。
 起き上がるなりの暴言に、ローダはムッとして言い返した。
「嘘くさいとは何事だ! 彼女を侮辱するのはよせ。どうせまた、くだらぬ事を言うのだろう!?」
「くだらないとは言ってくれるじゃないか! じゃあこっちも言わせてもらうけどねぇ。ティオリの森といえば、ルルニオ信仰の聖地のひとつだろ。精霊フェベロネントワの住処とも言われてる、モンスターうようよのヤバいところだ」
「あ……あーあー。そっかそっか」
 思わず納得の声をあげる。
 精霊フェベロネントワ。特に強い力をもつとされる、季節の十二精霊の一人である。水系精霊の最上位で、氷と樹木の精霊とされ、ティオリの森の最奥に棲むという。それに関するいくつかの伝説も、レイリーはかつて書物で読んだことがあった――それでティオリという言葉に聞き覚えがあったのだ。