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プロローグ
光が満ちている。
穏やかな光が満ちている。目に映っているのは、柔らかな色。緑、黄、橙。それらの色はどれも曖昧で、しかしなんとも優しく、互いの境界線を滲ませている。光は、そんな空間を、確かな温かさで満たしていた。
ひらひらと、不安定に揺れる視界の中、ぼんやりとした影が覗き込んでくる。
レイリー
『また……?』
ぼんやりと、ぬるま湯に浸かったような感覚が全てを支配している。響いた声は確かに自分のもので、しかし光の中に漂う自分は、目の前の影に快くはしゃぎ、甘えた笑い声を上げている。見たことがある。これは、見たことがある。
レイリー
また影が名を呼ぶ。自分の名。レイリー。耳慣れた響き。呼ばれることに特別な思いはない。だがなぜだろう、とても懐かしい――滑らかに絡みついてくるような影の声色が、心の何かを解きほぐしてゆく。
影に抱かれた自分が、小さな諸手を伸ばした。しかしやはり、その輪郭は光の乱舞に溶け、まるで塗りたての水彩を指で擦ったように滲み広がっている。何もかもがはっきりと見えず、何もかもが美しい。覗き込む影も。踊る光も。
レイリー
ああ、可愛い子
『あなたは誰……?』
ぼやけた手をゆっくりと伸ばしてくる影に、囁くように問うたその声は、きっと誰にも届かない。それはどうしてかわかっていたし、影が誰かもわかっていた。理屈ではなく感じていた。この安心感。世界のなにものも脅かすことのできない心の平安を与えてくれる、唯一の存在。彼女は母だ。
レイリー
まるで花のような子
きっときっと、綺麗に真っ直ぐ育って頂戴ね
胸が苦しかった。
彼女は母だ。だが誰だ? 自分の母とは一体誰だ? たとえようもない慈しみと、はかりようもない優しさに満ちあふれたこの空間を統べる存在。しかし分からない。何もわからない。ここはどこで、母は誰で、そして自分は一体、何だ?
レイリー
『お母さん、待って』
そうよ、レイリー
あなたはきっと――
『答えて、お母さん。お母……』
――幸せになるからね
彼女は目を覚ました。
「……ん……ぅ?」
じわー、ぼやー、と滲んだ視界。しかしどこか違和感のないそれらに何を思うこともできず、彼女はしばらく動かなかった。目を閉じ、うっすらと開き、また閉じる。ややあってもう一度開いた時には、世界は幾分その形を鮮明にしていた。
自らすっきりしようとしながらも、しかし気怠く失敗しているような、微妙な空気。落ち着いた木目の床に、色気も素っ気もない壁。小さな棚とテーブルがある意外、調度品と呼べそうなものはない。ただ、壁の杭に大切そうに掛けられた真っ赤なスカーフと、壁際に置かれた弓矢一式だけが、異質な存在感を控えめに主張していた。しかし頭が働いておらず、何をどう見ているのか把握できない。だいたいこの景色、どうして横に倒れているんだろう……?
目覚めというものは唐突で、自覚できないのだからそれは当然だが、やはり彼女の思考パズルも唐突に組み合わさった。部屋が横を向いているのは当たり前だ、自分が横になって今まで眠っていたのだから――視線を動かすと、寝乱れた真っ白なシーツが、半裸の肢体を実に中途半端に覆っているのが見えた。昨夜はなかなか暑かったもんなァ、と頭の片隅で思う。
「……んに〜〜〜ぅ〜」
間延びして間の抜けた謎な声をあげ、彼女はむっくりと起きあがった。めんどくさそうにシーツを払いのけ、ガシガシと頭を掻く。くしゃくしゃの金髪が、それでもサラサラと肩に踊った。手の甲で目尻を擦り、ひとつ大きくあくびする――たった今拭った涙が復活するが、今度は拭わずに頬を流れるに任せた。
夢を見ていた気がする。そして泣いていた気がする。全然覚えていないので、どうにも仕様がなかったが、少し気持ち悪かった。どんな夢だったか思い出そうと、数秒の間努力するも、やはり水を掴むような徒労に終わった。小さく息をつき、改めて視線を巡らせる。
素っ気ない内装の部屋に大変不釣り合いな上物のレースカーテンを透かして、素晴らしく透明な光が部屋に侵入してきている。空気は静かではなく、ざわめきや人声が遠く聞こえていた。
「……朝、か」
立ち上がる。ベッドの上で大きく背伸び。しなやかな身体を思いきり伸ばして、しつこい眠気を頭からふるい落とす。質素だがほどよい弾力のあるベッドが、ギシギシと不安げな音を立てた。ほ、と床に飛び降りる――薄いショーツにパジャマの上だけという、まことにあられもない格好ではあるが、何を気にする必要もない。
シャッとカーテンを開き、鍵を外して窓を開け放つ。透明なガラスは、それでも何らかの形で光を遮っていたものか、視界が一層明るくなったように感じられた。それとも、部屋に流れ込んできた朝の空気の所為だろうか。
腰ほどの高さの桟に手をつき、身を乗り出す――真下に、大勢の人で賑わう朝の通りがあった。この部屋は四階、住んでいる建物の最上階にあるので、地面まではかなり距離がある。しかし、売り買いに関わる喧騒は、うるさいほどに彼女の耳に届いていた。まぁ、それが嫌いではないので、ここに住み続けているのだが。
つと、視線を空に向ける。すかーんと抜けるような青空に、遙か彼方で輝く朝日。その朝日を逆光に受け、巨大な城が黒々と佇んでいるのが望めた。なんとなく、もったいないな、と思う。あの城は実に綺麗な白城であるのに、逆光の所為で、まるで魔王の居城のようになってしまっているではないか。
またあくびが出る。指の腹で涙を拭いながら視線を流すと、遠くぐるりと街を取り囲む、大きな壁の連なり――フェルギオラ市壁のいつもの光景が見えた。何気なく呟く。
「今日もいい天気だね、っと」
ぱむ、と窓を閉じる。そのままコツンと、冷たいガラスに額をぶつけてみた。穏やかにまとわりつく眠気が、いまだ抜けてくれない。なんともしつこいことである……
窓に映った、彼女。
肩までのセミロング・ブロンドに、通った鼻筋。細い眉は、優美でありながらどこか眠たげなラインを保ち、起き抜けの双眸をややだらしなく飾っている。その瞳は、澄んだハシバミの色――ちらりと舌が覗き、乾いた朱唇を舐め潤す。
さても、なかなかの美人。
(……むー、まだ眠い。ちょっとお肌荒れてきたかな……? 気をつけないと)
『レイリーさぁ〜ん』
聞こえた声に、彼女は振り向いた。背後に何がいたわけでもないが、ひとつ咳払いしてから返事をする。
「はぁ〜い」
『あ、起きてらっしゃいますね。朝ご飯、お召し上がりになりますかぁ〜?』
「うん、いただきまーす。すぐに降りるね〜」
答えつつ、片手でカーテンを引く。今日もまた、一日がはじまった。
トッ、と軽く踵を鳴らして、彼女、レイリー=ホイロッサは勢い良くパジャマを脱ぎ捨てた。
「さて。今日もがんばろっ」
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